般若波羅蜜 ー 智慧の完成

 日本でよく読誦される仏教経典の一つに「般若心経」というのがある。般若というと能で使われる般若の面を先ず思い浮かべるが、般若の面とは「嫉妬や恨みの籠る女の顔」の面だそうであるから、元の般若と言う意味からは程遠い。「般若」とは元来サンスクリット語のprajñā(プラジュニャー)の漢訳時における音写で、智慧という意味である。
 般若心経の正式な名称は「般若波羅蜜多心経」という。そのような経典の名称の略は多い。有名な法華経も正式には妙法蓮華経の略である。般若心経の名称の話に戻るが、「般若」に続く「波羅蜜多」というのは、これも元来サンスクリット語のpāramitā(パーラミター)の中国での漢訳時における音写であり、伝統仏教学の立場からは「到彼岸(とうひがん)」と訳され、また言語学的には「完成」と訳される。「到彼岸」とは、苦しみの此の岸から悟りの彼の岸に到る、という意味である。よって般若波羅蜜多とは、仏陀の智慧によって悟りの彼岸に到るべく修行する事である。そういう心持ちがこの般若心経に書かれている。
 仏教には部派仏教(小乗仏教)と大乗仏教があるが、私達が住む東アジアに伝えられたのは大乗仏教である。大乗仏教では、利他行(りたぎょう=他を利す行)といって、自らが悟るばかりでなく、他の人が悟りに到るようにしたり、させたりするということが非常に重要なことと考えられる。寧ろ自分は悟りの境地に到らずとも、他をして至らしめる事の方が重要であると説く。そのための修行として六波羅蜜という修行法がある。六波羅蜜とは、布施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜そして般若波羅蜜(智慧波羅蜜)である。これは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を修行する事によって悟りの彼の岸に到るという意味、或いはその六つの完成という意味である。その中でも般若波羅蜜、即ち智慧の完成は特に重要と考えられている。
 智慧とは仏陀の教えである。仏法では無知を無明ともいい、諸悪の根源とする。確かによくよく考えてみれば「知らない」という事は、苦の原因であり、畏れの原因である。知れば知る程、苦しむ必要、畏れる必要のないことを知る。確かに知るという事は大変重要である。そう言われると私たち現代人はすぐに、それでは学習・勉強しなければと考える。そうすると次に連想するのは本を読んだり、学校に行って習ったりして知識を得る事である。それも非常に大切な事である。しかしながら知識を集積するのと、智慧を完成させるのでは意味が違う。いくら知識があってもそれを使う事ができなければ智慧の完成にはならない。智慧の完成とは、その知識を使って他を悟りに導くことである。
 大乗仏教の空の義を確立させた龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は自らを一切智者と呼んだ。中国の仏教僧天台大師智顗は、その博識故智者大師の称号を授けられた。日本の日蓮宗の祖日蓮は、智慧を象徴する菩薩といわれる虚空蔵菩薩に向かって、自らを一切智者と成さしめ賜え、と祈ったと言われている。これらの先師が、如何に智慧の完成に自ら尽力したかが伺える。
 智慧の完成に向けての研鑽には一際努力精進を要する。先師の例をみても我々には到底達し得ない修行であると感じてしまう。然し乍ら仏法ではその逆も言う。釈迦牟尼仏陀は経典中、「我れ本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なることなからしめんと欲しき。(法華経方便品第二)」と説き、衆生が皆仏道を成ずる、即ち誰でも仏陀の悟りに到る素質があると説いている。私たちも智慧の完成に到ることが可能なのだと説いているのである。実際に経典中でその後、決して成仏できないと言われていた十大弟子達に次々に授記、即ち未来の成仏を保証する。弟子達はその喜びを、「無量の珍宝、求めざるに自ずから得たり。(法華経信解品第四)」と表現している。仏陀の悟りに到る素質、それは宝であり、そのこの上も無い宝は、それを自ら求めずとも既に我が心中に得ていたのだ、それを仏陀が保証してくださった、というのだ。法華経においてはこの後、法師品第十に至るまでにすべての人々の成仏を保証するのである。それは現代を生きる私たちも皆含まれる。私たちは智慧の完成を達成することのできる素質を持っているのだと、仏陀が保証しているのである。

 

今日もリラックスしてジャズピアノでも聞いてください。

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