迷信・妄信から自己を解放する

 約2500年前、仏教の祖釈迦牟尼は阿耨多羅三藐三菩提と呼ばれる無上の悟りの境地に達するにあたって、すべての迷信・妄信から自己を解放することに成功した。当時インドにおいて信仰されていた現在のヒンズー教の元となったバラモン教の提唱するカーストの妄信を否定した。輪廻転生から、無上の悟りによる解脱を提唱した。釈迦牟尼はあらゆる当時の迷信・妄信から自己を解放し、真の心の自由を得たのである。

 釈迦牟尼以前の世界の宗教は、神が存在し、またその神がこの世の創造主である。しかしながらその神も創造主もすべて人間の頭の中で考えだされたものであり、人間の主観的想像力の範疇を出ない。釈迦牟尼の仏法は、釈迦牟尼という一個の人間が人間を徹底的に客観的に分析した結果に基づいた体験的な人間完成のための法である。よって正確には仏法と呼ばれるべきであり、宗教という西洋主義的な分類法による範疇には納まらないと思われる。日本語の「宗教」とは、religionという西洋語の訳語であり明治初期につくられた造語である。西洋的概念により釈迦牟尼の仏法は仏教として世界三大普遍宗教の一つなどと定義付けられているが、実際のところそれは当てはまらないと思う。仏法は仏陀(覚者)になるための法である。

 仏法の歴史の中で大乗仏教運動が起こり、仏法を仏弟子と呼ばれる僧ばかりでなく広く民衆の為に弘めようとした時、再び当時世の常識ともされたバラモン教の思想等を取り入れ、広く世の人々に迎合せざるを得なかった。よって大乗仏教経典では輪廻転生を肯定し、バラモンが登場し、更には当時仏道を基にした様々な民間信仰を統合するため、苦行の肯定や呪文、聖人信仰等が取り入れられた。大乗仏教の対象とする人々の範囲は広大で、崇高な一切空の理念から観音信仰や呪文による守護祈祷まで多岐に亘っている。そのような信仰が時とともに発展し、中央アジアから中国・韓国・日本・ベトナム等に伝播され、崇高な哲学的理念は中国または特に日本で特に発展し、一方で迷信・妄信ともいうべき程度の低い民間信仰も仏法の一部として見做されそれらのアジアの国々で発展した。結果として日本においてもインドのヒンズー教の神々を仏教の守護神として祀り上げることとなった。帝釈天信仰、毘沙門天信仰、弁財天や大黒天、鬼子母神の信仰などがそれにあたる。大乗仏教においては経典に現れる仏や菩薩までも神格化され民間信仰の対象となった。阿弥陀仏や薬師如来、観音菩薩や地蔵菩薩など既に永年に亘り民間信仰の対象となり、それが仏教であると考えられていることが多々ある。永年に亘る民間信仰は数々の迷信・妄信を生み出し定着させている。よって元来迷信・妄信からの自己の解放を提唱した仏道の本意とは裏腹に、現在の仏教は特に大乗仏教を信奉する国々において、迷信・妄信の百貨店と成り下がっているといっても過言ではない。

 余談ではあるが、1956年現在のインド国憲法の草案作成者である故B.R.アンベードカル氏が、自らがインドのカースト制度における不可触賤民階層の出身であったことによる差別を嫌って、その基であるヒンズー教から仏教に、それに賛同する60万人の人々と改宗した時、大乗仏教でもなく部派仏教でもないオリジナルの仏教に改宗したというのは、その辺のところに由来するのではないかと想像する。氏は改宗にあたり、キリスト教やイスラム教など様々な宗教を徹底的に研究し、自らが完全に理解・納得する宗教を選んだ結果が仏法だったのである。氏のように迷信・妄信に満ちあふれた現在の仏教から、如何にして真に魂の自由を勝ち取ることのできる仏法に人々を導きえるかと考える時、一仏教僧として正直言って頭を抱えるばかりである。

 大乗仏教では方便ということを重んじる。自己のためにつく嘘を嘘と呼び、他のためにつく嘘を方便と呼ぶ、という人もいる。なかなか分かりやすい説明だと思う。この方便は人々を真の悟りに導くための方便であり、とても重要な手段である。妙法蓮華経という経典では一章丸ごと「方便品」といってその方便の効用と重要性を説く。しかしながら受け取る側の私たちはその方便に甘んじすぎて、方便の域を永く出られぬようになってしまっている。

 釈迦牟尼は、敵は決して自らの外には存在せず、自らの内に存在するという。内なる敵に打ち勝ってこそ、勝利の自由が得られるのである。迷信・妄信とはいかなる人においても内なる敵である。迷信・妄信は畏れを伴う。今その畏れに打ち勝つ強さを持ち、その畏れに打ち勝つことこそ、私どもに真なる人間完成の道、真なる心の自由をお教えくださった釈迦牟尼に対する恩に報いるということではなかろうか。