我輩は犬である(観音橋対決編)

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「愚か者め…」

我輩は犬である。名をイチローという。

 

今朝もまたご主人様と近くの森林公園を散歩する。非常に気持ちがいい。森を渡る風は美しい。とは言っても風に色があるわけでも無し、何が美しいかと言えば新緑の木々の葉をそよぐ音も、揺れる木の葉も、その間に降り注ぐ陽の光もこの上も無く美しいのである。その美しさを堪能しようと暫く立ち止まると、何を急いでいるのかご主人様が我輩を引っ張る。「おい、イチロー。もう疲れたのかい?」と言って引っ張るのを止め、長い距離を歩いた後少しく息が荒くなっているご主人様も、暫しの間森を渡る風を楽しんでいるかのようである。それでいいのである。狭い日本そんなに急いでどこへ行く…である。

 

暫く立ち止まった後、暫し歩みを進めると公園の出口の下り坂から大きな観音橋に続く道。ご主人様はここを通るたびに、道に横たわっていた生まれたばかりであろう瀕死の子猫を置き去りにして立ち去ったことを悔やむのである。「きっとカラスにさらわれて…チクショウめ…」いつまでも引きずらない方がいいと思うのだが…。

 

その時である。大きなカラスが上空のそよ風に乗って我輩達の上を弧を描いて飛んでいるではないか。何を思ったかご主人様は急に道に落ちている小石を拾い上げ、カラスに向かって投げつける。「失せろ、このバカラス!…」石を投げつけられたカラスはたまったものではない。橋の下の森に叫びながら消えて言った。それも「バカー、バカー」と叫んでいるように聞こえたのは我輩の気のせいか…。「チェッ」と吐き捨てるようにご主人様が憎しみを込めた目でカラスの消え去った森を見る。すると…である。例の大きなカラスの十倍もあるような途轍もない大ガラスが突然森から飛び出してきて、ご主人様と我輩が渡ろうとしている橋の欄干を鷲掴みにして(…いや、この場合はカラス掴みか)我らが行く手を遮るかのようにこちらを睨みつけているではないか。我輩は少しく(実は大いに)たじろぎ思わずご主人様を見上げると、ご主人様もご主人様でその途轍もない大ガラスをじっと睨み返しているのである。我輩はなにげに仁王立ちのご主人様の後ろに…隠れるわけではないが、そこに位置をとる。

 

「なぜ我らに石を投げつける」大ガラスが声低く脅すように聞く。

「それはお前の仲間が無慈悲にも生まれたばかりの子猫をさらって食べてしまったからだ!」ご主人様がそんな大ガラスを前になんと怯まずにきっぱり言い返す。

「愚か者め。この森に多くの猫がお前ら人間の手によって置き去りにされ、子を産み落とし不節操に増え続ける。もし我らが手を下さねばこの森はどうなる?」

「ぐぐっ」ご主人様は何も言えなくなった。

 

暫く睨み合いは続いたが、勝負ありである。色の引いた惨めなご主人様の顔を確かめると、大ガラスは真っ黒な翼をバタバタいわせて欄干を飛び立ち何処へともなく飛び去って行った。

 

とてもそんなとんでもない事が起きた後とは思えぬほど爽やかな風が、橋の下の森の木々を吹き渡る。我に帰ったご主人様と我輩は心なしか気を落としたようにゆっくりと帰途についた。

 

ご主人様が突然小声で鼻歌のように寂しそうに歌い出した。

「カーラースー、なぜ泣くの。カラスはやーまーにー…カラスにも七つの子がいるんだよな…イチロー」

我輩は黙って歩みを進めた。

 

諸行は無情…いや、無常なのである。