我輩は犬である(シャボン玉とんだ編)

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シャボン玉とんだ。屋根までとんだ。

我輩は犬である。名をイチローという。

 

梅雨の合間の青空の下、むせ返るような暑さの午後の庭で、六つと二つになるご主人様の愛娘が、半分裸になって無邪気にシャボン玉を作ってはしゃいでいる。我輩は見るともなくシャボン玉を見つめている。

 

シャボン玉は作られて上の方に昇っていくものあり、下の方に漂って地面に落ちるものあり…。ただその一つ一つがみな空の青さや雲の白さ、周りの木々の緑など様々な美しい色を抱えて漂っている。

 

よく見るとシャボン玉は生まれて直ぐはみずみずしく周りの景色を写して昇って行くが、だんだん時を経るにつれてその表面が周りの空気と溶け合うように薄くなり、やがてパチンでもなくそっと儚く消えていくのである。

 

シャボン玉という童謡の歌詞を思い出した。

 

シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ

 

この歌は本来寂しげに歌うのだそうである。なぜならこの詩を作った野口雨情という詩人の「みどり」という名の長女が生後七日目にして逝ってしまった。その儚き命を悲しみ雨情がこの詩を書いたと言われている。

 

本当にその詩のように、シャボン玉はだんだんとその膜を薄くし儚く消えていくのである。ああ、悲しくも美しいシャボン玉よ。

 

などと寝そべって思いに耽る我輩は、自分で言うのもなんだが誠に教養高き犬である。それに比べ我輩のご主人様は毎日何も考えていないかの如く夕方になるとビールをかっくらって昼寝している。誠に情けなしや…。

 

それでもシャボン玉は美しく周りの景色を映し出し、やがて薄く、薄くなり儚く消えていく。

 


しゃぼん玉 (童謡)~ジャズアレンジ ピアノソロ

我輩は犬である(観音橋対決編)

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「愚か者め…」

我輩は犬である。名をイチローという。

 

今朝もまたご主人様と近くの森林公園を散歩する。非常に気持ちがいい。森を渡る風は美しい。とは言っても風に色があるわけでも無し、何が美しいかと言えば新緑の木々の葉をそよぐ音も、揺れる木の葉も、その間に降り注ぐ陽の光もこの上も無く美しいのである。その美しさを堪能しようと暫く立ち止まると、何を急いでいるのかご主人様が我輩を引っ張る。「おい、イチロー。もう疲れたのかい?」と言って引っ張るのを止め、長い距離を歩いた後少しく息が荒くなっているご主人様も、暫しの間森を渡る風を楽しんでいるかのようである。それでいいのである。狭い日本そんなに急いでどこへ行く…である。

 

暫く立ち止まった後、暫し歩みを進めると公園の出口の下り坂から大きな観音橋に続く道。ご主人様はここを通るたびに、道に横たわっていた生まれたばかりであろう瀕死の子猫を置き去りにして立ち去ったことを悔やむのである。「きっとカラスにさらわれて…チクショウめ…」いつまでも引きずらない方がいいと思うのだが…。

 

その時である。大きなカラスが上空のそよ風に乗って我輩達の上を弧を描いて飛んでいるではないか。何を思ったかご主人様は急に道に落ちている小石を拾い上げ、カラスに向かって投げつける。「失せろ、このバカラス!…」石を投げつけられたカラスはたまったものではない。橋の下の森に叫びながら消えて言った。それも「バカー、バカー」と叫んでいるように聞こえたのは我輩の気のせいか…。「チェッ」と吐き捨てるようにご主人様が憎しみを込めた目でカラスの消え去った森を見る。すると…である。例の大きなカラスの十倍もあるような途轍もない大ガラスが突然森から飛び出してきて、ご主人様と我輩が渡ろうとしている橋の欄干を鷲掴みにして(…いや、この場合はカラス掴みか)我らが行く手を遮るかのようにこちらを睨みつけているではないか。我輩は少しく(実は大いに)たじろぎ思わずご主人様を見上げると、ご主人様もご主人様でその途轍もない大ガラスをじっと睨み返しているのである。我輩はなにげに仁王立ちのご主人様の後ろに…隠れるわけではないが、そこに位置をとる。

 

「なぜ我らに石を投げつける」大ガラスが声低く脅すように聞く。

「それはお前の仲間が無慈悲にも生まれたばかりの子猫をさらって食べてしまったからだ!」ご主人様がそんな大ガラスを前になんと怯まずにきっぱり言い返す。

「愚か者め。この森に多くの猫がお前ら人間の手によって置き去りにされ、子を産み落とし不節操に増え続ける。もし我らが手を下さねばこの森はどうなる?」

「ぐぐっ」ご主人様は何も言えなくなった。

 

暫く睨み合いは続いたが、勝負ありである。色の引いた惨めなご主人様の顔を確かめると、大ガラスは真っ黒な翼をバタバタいわせて欄干を飛び立ち何処へともなく飛び去って行った。

 

とてもそんなとんでもない事が起きた後とは思えぬほど爽やかな風が、橋の下の森の木々を吹き渡る。我に帰ったご主人様と我輩は心なしか気を落としたようにゆっくりと帰途についた。

 

ご主人様が突然小声で鼻歌のように寂しそうに歌い出した。

「カーラースー、なぜ泣くの。カラスはやーまーにー…カラスにも七つの子がいるんだよな…イチロー」

我輩は黙って歩みを進めた。

 

諸行は無情…いや、無常なのである。

人生は執着しなければ生きられない!?

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執着の泥沼に美しく咲く空の蓮華

仏教の根本的な思想は物事に捉われない、執着しないという事です。何もかもに執着することがなくなった時、心は大宇宙に解き放たれ真の自由を得る…、ということを以前書きましたが、さてそれが真実であるかどうか甚だ心配になってきました。

 

何たって私たちは先ず第一に「生きる」ことに執着しているではないですか。生きることに執着しなければ生きる必要もない…、てな考えに至ってしまってはニヒリズム(虚無主義)に落ち入ってしまうだけです。

 

そういえば私達は日常生活の中で種々なことに執着して生きています。より幸福な生活をしようとする執着心は誰でも持っているし、それを否定する必要もありません。そう、「執着」という言葉を「悪」と捉えてしまうところに、それこそ執着があったのです。

 

西暦538年日本では仏教伝来といって大陸から正式に日本の朝廷に仏教が伝わりました。その時の受け手の中心が推古天皇のもと摂政をしていた聖徳太子です。太子が強く感銘を受け後に「三経義疏」を著した経典の一つに「維摩経(ゆいまきょう)」というお経があります。この維摩経の中に上記の問題に対する答えがありました。

 

維摩経の主人公はブッダではありません。インドのある都市に住む一市民、維摩居士(ゆいまこじ=居士とは出家者でない仏教の熱心な信奉者のこと)です。この維摩居士がある時病気になりました。ブッダが弟子たちに見舞いに行くように勧めますが、誰一人としてそれに応える者はいません。なぜなら、かつて居士の鋭い舌鋒で悉く論破された経験から、みんな腰が引けているのです。唯一人、見舞いに行くことにした文殊菩薩が居士のところを訪れ前代未聞の対論が始まります。その対論からは、「縁起」「空」「利他(りた=他を利すること)」といった大乗仏教ならではの概念が、単なる観念的遊戯ではなく、日々の暮らしの中の「実践」の問題として浮かび上がってきます。

 

「理想の生き方は、世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと。」

「すべての物事は関係性によって成立しており、実体はない。」

「だからこそ自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ。」

 

維摩居士の主張には、当時の既存仏教の枠組みさえ解体しかねない破壊力があります。それどころか、現代人の私たちがつい陥りがちな「役に立つ・役に立たない」「損・得」「敵・味方」「仕事・遊び」「公的・私的」のように、全てを二項対立で考えてしまう思考法を悉く粉砕します。その結果、全てを受け入れ、この苦悩の世の中を生き抜く覚悟へと私たちを導いてくれるのです。

 

維摩居士によれば、執着もまたよし、ということでしょうか。いやいや、よしどころではなく、執着も必要なのですね。「執着する・執着しない」という思考法を粉砕してこそ、心は自在を得るのですね。

 

小生は子猫である

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おかあさん、早く迎えに来て…

小生は子猫である。まだ生まれたばかりである。しかしながらどうやら母親とはぐれてしまったようだ。この森林公園の片隅で、共に生まれた兄弟姉妹たちと息を潜めているように言ったきり帰らぬ母猫を待っていると、大きな黒いカラスが空から黒雲のように舞い降りて小生の片足をいきなり乱暴に咥えて飛び立った。悲壮な目で見つめる兄弟姉妹を眼下に、まだ小さくとも鋭い…かどうかは分からないが、爪をたてカラスの足を引っ掻きもがくと、堪らなくなったカラスは小生を思わず離してしまった。

何が起こったのかよくは分からないが、小生は公園の小道に横たわっているようである。動けない。周りは草木の他は何も無い。時々ニャーニャーと鳴いてみる。何も起こらない。お腹が空いた。喉も渇いた。食べるものも飲むものもなく、動くことも出来ない。ただ時々からだ中の力をふりしぼってニャーニャーと鳴いてみる。

どれくらい経っただろう。意識も薄れ朦朧としてして動けずじっとしていると、何かの気配を感じた。人が歩いてくるようである。それも犬を連れてである。犬は小生を見つけ「ワン、ワン」と吠えたてている。飼い主であるらしき人はそんな犬を制して小生をじっと見つめているようである。藁をも掴む思いでからだ中の力をふりしぼってニャーニャーと鳴いてみる。

暫くすると人と犬が再び歩き始める。しかしまた立ち止まったようだ。もう一度からだ中の力をふりしぼってニャーニャーと鳴いてみる。背後に気配を感じるが人も犬も暫く動かない。もうニャーニャー鳴く力もない。

知らず知らず意識が遠のいてしまったようである。相変わらず小生の上を春風だけが穏やかに通り過ぎる。目を開けるのも億劫だ。「おかあさん、早く迎えに来て…」と心の中で呟く。もう何もできない。

どれくらい経ったのか、ゆっくり薄眼を開けると何かがこちらにやってくる気配がする。明るい光の中でこちらにゆっくりと歩いて来る大きな白いからだ、おかあさんだ!やっと迎えに来てくれた。おかあさんは小生の動かなくなったからだを優しい目で見回し、からだ中を丁寧に舐め回す。からだが溶けるほどに至高の幸せである。やっと来てくれた。ありがとう…。力なくおかあさんの目を見つめると、この上もなく慈悲に満ちた眼差しで、優しい光で包むように小生のからだを見渡す。やっと会えた、おかあさん。やがておかあさんは小生の首をゆっくりと咥え、春風のそよぐ大空の大きな光に向かって翔び立った。何も怖くない。おかあさんと一緒だから…。

 

犬とその飼い主は、また今日も公園を散歩する。昨日の子猫はもういない。跡形もなくそこにはいない。「カラスに食われちまったかな…」と悲しそうに呟く飼い主に、犬のイチローは唯々空を見上げ、光の中に翔び立った母子の猫を思う。

日本の仏教は執着のかたまり?

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あらゆる執着をなくした瞬間、心は大宇宙に解き放たれる。

仏教の究極の目的は執着をなくすことです。全ての物や現象に対する執着から離れて心の自由を得ることが究極の目的なのです。何たって生きてることや死ぬことに対する執着もなくせっていうんですから、そりゃもう徹底的に執着をなくすという事です。

それを「空」を悟るとか、「一切空」だとか、悟りの完成だとか呼ぶから難しく聞こえてしまって、厳しい修行を積んだ偉いお坊さんしか達成できそうもない事のように思えてしまうのです。

確かに、物事に執着しないということを毎日考えて突き詰めていくと、それは「執着をしない」ということにも執着しないというとこまで突き詰めていくと、ある日大宇宙に心が解き放たれて拡がっていくような真の心の自由を得たような感覚になることがあります。それは勿論恒久的ではなく、(恒久的であったらブッダ、つまり覚者に成れるという事でしょうが)刹那的であっても、つまり一瞬であってもそのような開放感に浸れることに大いなる精神的快感をおぼえます。「ああっ、これが解脱(げだつ)ということか」というような感覚です。

私達日本人は無意識のうちに仏教を礎にした文化に生きています。普段話す日本語の端々にも仏教語が溢れています。勿論それはそのことを勉強したり研究したりしている人にしかわからない程日本人の日常生活に溶け込んでいます。それ程のものですから、オリジナルな仏教の思想がそのまま伝えられ、無意識のうちに人々の考え方に反映されていれば、多くの人々がこの国でそういう考え方に救われてもっと自由に、幸せに生きていけたはずだったのです。

ところが仏教の根本的な教えは、日本に伝わって時を経、日本固有の土着信仰や文化と融合、ましてやその時々の社会情勢などの影響を受け、執着から解脱し真の心の自由をえるどころか、段々と逆の方向、つまり執着のかたまりみたいになってきました。

こういう傾向は日本仏教ばかりではありません。世界に存在するあらゆる信仰や宗教も同じようなことが起きています。後世の人々の都合や権力争い等により、原初の純粋な信仰や教義がいつの間にか曲げられ、そのまま発達してしまうということはよくあることです。

話は日本に戻りますが、日本仏教が執着のかたまりのようになってしまった結果、当然それを礎にして成り立つ日本の文化自体に執着が溢れて、現在でも皇室の継承問題等にその兆候が顕著です。

「万世一系」等という言葉を聞くと、如何に物事の真理が見えないで執着に溢れているかが分かります。「男系男子に限る」とか、「天皇に人権はない」なんていうことが公の文章に書かれていること自体目を疑います。日本人はなんて了見が狭いのだろう、何でそんなことに執着しているのだろうと、日本人であるからこそ恥かしく思ってしまいます。まあ、大部分の日本人がそうは思ってらっしゃらないようなので安心はしていますが…。

天皇陛下は日本人の象徴である。だったら日本人であればそれで十分ではないですか。そういう縁あって皇室に生まれた方々が男であろうが女であろうが、男系であろうが女系であろうが、更に縁あって誰かと結ばれ繋いでいけばそれで十分だと思うのですが…。

人生いろいろありますが、なるべく何事にも拘らないで執着しないで生きていくと本当に楽に生きることができて幸せに成れるのになあ…と思いますが如何でしょう。

我輩は犬である

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今日の散歩はいろんなことがあって疲れたな〜。。。


我輩は犬である。名前はイチローという。ご主人様が勝手に付けた名前だがこれといって不満もないし、自分の気に入った名前も別段思いつかないので、それでよしとしている。何でもご主人様が大好きな野球選手らしいのだが、我輩にとってはどうでもいいことである。
さて今日は令和元年の初日5月1日である。それに伴い新天皇が即位した。ご主人様とは同じ年に生まれたらしく、朝から妙に興奮している。「なんで退位の礼や即位の礼に皇后様が出ないんだ。男女平等なんてお題目だけじゃないか、右翼サイテー」なんて朝から声高にテレビに向かって叫んでいるが、それよりも我輩にとっては今日の天気が気がかりである。

ご主人様は雨の日は散歩に出ないのである。それを我輩のせいにして「イチローは雨が嫌いだからなー」とかなんとか言って散歩を怠ける言い訳にしているのである。

朝食後窓から空を心配そうに見上げているご主人様を見ながら、ワザと熱い視線を送る。じっと我輩の目を見る。「しょうがない。そんなに行きたいか…」などと言いながら、やっと決心がついたらしい。何しろご主人様もメタボリックシンドローム気味なので、散歩には積極的に行った方が身のためだ…などと心配するのは、主人を思う犬心か。

それにしても今日は体が重い。昨日は1日雨で散歩に行かず、つい昨日の分の排泄物をお腹に溜めてしまった。散歩が始まりしばらくしていい場所を見つけたので、その辺をうろうろすると、ご主人様もそれきたかと小さなビニール袋をポケットから取り出す。「おい、イチロー、でもここは人の家の真ん前だぞ」などと言っているがもう遅い。既にその体勢に入り用を足していると、マズイことにその家の車らしき黒いバンが入り口から入って来た。何気に止まってこちらを見ている。ご主人様は焦った気持ちを抑えるように、如何にも優等生的飼い主のような態度で我輩のその物をビニールの袋をひっくり返して手慣れた手付きで片付ける。そしてまるで「ちゃんと片付けましたよーだ」と言わんばかりに袋の口を閉めている。黒いバンは無事に家のガレージに入って行った。

それから無言で暫く行くと、森の公園に至る。世はゴールデンウィーク、10連休で、こんな時には普段は静かな山奥の公園にも人がいる。何やら行く手にピンクの軽自動車が止まっており、老人が一人森の中で春の山菜採りをしているらしい。優等生飼い主を装うご主人様が「こんにちはー」などと若ぶって声を掛けると、その老人がいきなり焦った様子で丘を駆け下りこちらに向かってくる。何事かと思いきや、突然茂みから老人の飼い犬らしき繋がれていないピットブルが凄い顔して我輩に向かってくるではないか。普段気の優しい我輩は喧嘩など好むところではないが、売られた喧嘩は買わねばならぬ。どうやらガタイは我輩の方が少し大きいようだ。ピットブルが飛び掛かり、我輩も応戦しようと身構えた時、飼い主の老人が飛び出して来て「こらこら!ダメじゃないか」と言ってそのビットブルを必死に止める。我輩はここぞチャンスと思いこちらから飛びかかろうとすると、今度はご主人様が「こらこら!イチローダメじゃないか!」と必死で引っ張る。何とか引き離されたかと思いきや、何ともう一匹のピットブルが必死の形相で吠えながら我輩に向かって来るではないか。これはもう防ぎようがない。「ガウガウガウ!」などとお互いに縺れ合うと、賺さずご主人様が引っ張って離そうとする。そのうち我に帰ったご主人様が我輩を強く引張ってその場を走り去った。二匹のピットブルのチームワークは思ったよりも強く、このままでは我輩が可哀想なことになってしまうだろうと察したのかもしれない。多勢に無勢である。走り去るご主人様と我輩の背中から例のピットブルの飼い主の老人が大声で詫びている。そうだ。あんたが悪い。いくら山奥の森の公園だからといってピットブル二匹を放しておくなんて非常識だ。もう少しで血を見るところであった。

むしゃくしゃした気持ちがおさまらぬ内に今度はのら猫を発見。さっきの八つ当たりをしてやろうかと走り出して追おうとする我輩を引っ張るご主人、「Forget about it!」何て言ってる。突然英語になるなよ。ここは日本で我輩は日本犬である。

「新天皇皇后陛下共に外国への長期留学経験もあり、語学も堪能だ。6年も10年も英語を習っても話せない…話さない日本人のために見本となって国際親善に尽力して欲しいよねー」なんて我輩に向かって話しているのか、独り言なのかよくわからないが我輩の散歩は黙々と続くのである。約4キロのコースを歩き帰宅すると、ご主人様が「令和最初の日の散歩は散々だったよな、イチロー」などと呟きながら我輩の排泄物の入ったビニール袋を外のゴミ箱に入れ、またテレビの前に戻って「いよいよ即位の礼だ!何で皇后陛下が出られないんだ。今の政府は間違ってる。次の天皇は絶対に愛子様だー」などと叫びながらテレビを見入っている。我輩は散歩後に十分に水分を補給し、テレビに夢中になっているご主人様の足元で横になる…わけではないがじっと座っている。

新天皇陛下の即位の礼とやらが始まり「威風堂々としていて素晴らしい!」などと何故か涙ぐんでいるご主人様の気持ちがさっぱりわからないのは、我輩は犬である…からである。

ブッダの10の肩書き

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ネパールのブッダ

肩書きがなくとも魅力ある人間になりたいということを前回書きました。

ところがブッダにも肩書きがあったのです。しかも10もの肩書です。しかしそれはどこどこの組織や団体の長だとかというようなつまらないものではなく、ブッダの真の徳から人々が感じ得てそれを表すために付けられたものでした。

「如来の十号(にょらいのじゅうごう)」といってブッダには十の呼び名があるのです。

そもそもブッダとは「覚者」即ち悟りに至った者という意味ですから、正確にいうとブッダ自身の本名ではありません。本名はゴータマ・シッダールタ(シッダッタともいう)といいます。ゴータマが姓でシッダールタが名です。はじめゴータマ・ブッダと呼ばれていましたが、いつの間にかゴータマがとれてブッダと呼ばれています。

ブッダの十の呼び名とは…

1、如来(にょらい=真実に至りそこから来る者を如去如来といい、如来と略された)

2、応供(おうぐ=供養を受けるに相応しい人)

3、正偏知(しょうへんち=宇宙の現象を正しく知る人)

4、明行足(みょうぎょうそく=正しい智慧をもち、それを行なう人)

5、善逝(ぜんぜい=迷いの此岸から悟りの彼岸に善く逝って還らぬ人)

6、世間解(せけんげ=世間のことがよく解っている人)

7、無上士(むじょうし=この上もない人)

8、調御丈夫(ぢょうごじょうぶ=人々を上手に導ける人)

9、天人師(てんにんし=帝釈天などの神々や我々人間の師となる人)

10、仏(ぶつ=真理に目覚めた人)

11、世尊(せそん=世において最も尊い人)

…あれっ?11ありますね。でも安心してください。「如来の十号」だから如来は数に入らず10の呼び名でいいのです…。まあ、諸説ありますが、それでいいのです。

これが仏教経典に出てくるブッダの10の呼び名です。肩書きなんかじゃありませんね。

この10の呼び名が、ある経典中ではブッダを指す時必ず出てきます。ですからブッダの名が現れる度にこの10の名を言わなくてはなりません。とても長い名前になりますね。

話はそれますが、米国ハワイ州の州魚の名は「フムフムヌクヌクアプアア」といいます。この魚は決して捕まえることができないそうです。何故なら名前が長すぎて、その名前を呼んでいるうちに逃げてしまうからだそうです。

冗談はさておき、このブッダが10の呼び名を持つというようなことは、私たちの現代社会でも実際にあることです。例えば歴史上有名な剣術家の柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)とか、江戸町奉行の大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)など、またブラジルやペルーでは父方母方の姓、さらには祖父母の姓を二つも三つもくっ付けてとても長い名前がみられます。例えばボサノバの創始者の一人として有名なブラジルのアントニオ・カルロス・ジョビンの本名はアントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ジ・アウメイダ・ジョビンというのだそうです。大体その名前を見ればどこの人だとか、どこの出身だとか、あんな仕事なのか、とかがわかるものです。

私たちもせっかくこの命をいただき今生を生きているのですから、思い切っていろいろな呼び名を自分自身につけて見るのも面白いですね。名は体を表すともいいますので。

例えば私だったら、私の姓は今井と申しますので、今井超破戒・怠け者・優柔不断・大酒飲み・無責任・メタボリック・真行なんてのはちょっと困りますね。ですから何とかせいぜい今井やや破戒・まあ働き者・柔軟・酒ほどほど・楽天家・中肉中背・真行くらいにしたいものです。

名前を人生の鑑(かがみ)とし、より素晴らしい呼び名に近づいていけるよういろいろなことに打ち込んでいくなんていうのも楽しい人生の生き方かも知れません。