日本の仏教は執着のかたまり?

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あらゆる執着をなくした瞬間、心は大宇宙に解き放たれる。

仏教の究極の目的は執着をなくすことです。全ての物や現象に対する執着から離れて心の自由を得ることが究極の目的なのです。何たって生きてることや死ぬことに対する執着もなくせっていうんですから、そりゃもう徹底的に執着をなくすという事です。

それを「空」を悟るとか、「一切空」だとか、悟りの完成だとか呼ぶから難しく聞こえてしまって、厳しい修行を積んだ偉いお坊さんしか達成できそうもない事のように思えてしまうのです。

確かに、物事に執着しないということを毎日考えて突き詰めていくと、それは「執着をしない」ということにも執着しないというとこまで突き詰めていくと、ある日大宇宙に心が解き放たれて拡がっていくような真の心の自由を得たような感覚になることがあります。それは勿論恒久的ではなく、(恒久的であったらブッダ、つまり覚者に成れるという事でしょうが)刹那的であっても、つまり一瞬であってもそのような開放感に浸れることに大いなる精神的快感をおぼえます。「ああっ、これが解脱(げだつ)ということか」というような感覚です。

私達日本人は無意識のうちに仏教を礎にした文化に生きています。普段話す日本語の端々にも仏教語が溢れています。勿論それはそのことを勉強したり研究したりしている人にしかわからない程日本人の日常生活に溶け込んでいます。それ程のものですから、オリジナルな仏教の思想がそのまま伝えられ、無意識のうちに人々の考え方に反映されていれば、多くの人々がこの国でそういう考え方に救われてもっと自由に、幸せに生きていけたはずだったのです。

ところが仏教の根本的な教えは、日本に伝わって時を経、日本固有の土着信仰や文化と融合、ましてやその時々の社会情勢などの影響を受け、執着から解脱し真の心の自由をえるどころか、段々と逆の方向、つまり執着のかたまりみたいになってきました。

こういう傾向は日本仏教ばかりではありません。世界に存在するあらゆる信仰や宗教も同じようなことが起きています。後世の人々の都合や権力争い等により、原初の純粋な信仰や教義がいつの間にか曲げられ、そのまま発達してしまうということはよくあることです。

話は日本に戻りますが、日本仏教が執着のかたまりのようになってしまった結果、当然それを礎にして成り立つ日本の文化自体に執着が溢れて、現在でも皇室の継承問題等にその兆候が顕著です。

「万世一系」等という言葉を聞くと、如何に物事の真理が見えないで執着に溢れているかが分かります。「男系男子に限る」とか、「天皇に人権はない」なんていうことが公の文章に書かれていること自体目を疑います。日本人はなんて了見が狭いのだろう、何でそんなことに執着しているのだろうと、日本人であるからこそ恥かしく思ってしまいます。まあ、大部分の日本人がそうは思ってらっしゃらないようなので安心はしていますが…。

天皇陛下は日本人の象徴である。だったら日本人であればそれで十分ではないですか。そういう縁あって皇室に生まれた方々が男であろうが女であろうが、男系であろうが女系であろうが、更に縁あって誰かと結ばれ繋いでいけばそれで十分だと思うのですが…。

人生いろいろありますが、なるべく何事にも拘らないで執着しないで生きていくと本当に楽に生きることができて幸せに成れるのになあ…と思いますが如何でしょう。