守護と仏法

 七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)という経文がある。これは、仏教で釈迦牟尼以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)が共通して説いた教えを一つにまとめたとされている偈であり、『法句経(ダンマパダ)』などに収録されている。

「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教(しょあくまくさ・しょぜんぶぎょう・じじょうごい・ぜしょぶっきょう)もろもろの悪を作すこと莫く、もろもろの善を行い奉り、自ら其の意(こころ)を浄くする。これが諸仏の教えなり。」

 この経文には逸話がある。[中国唐の詩人・白居易は禅を好み、禅僧・鳥窠道林(鳥窠和尚)に「仏教の真髄とは何か」と問うたところ、この偈の前半を示された。白居易は「こんなことは3歳の子供でもわかるではないか」と言ったが、道林に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないだろう」とたしなめられたため、謝ったという。(ウィキペディアより)]

 この逸話を聞いたら誰でもニンマリするのではないか。誰でもが白居易になる。誰もが鳥窠和尚にたしなめられて、してやられたと思うに違いない。仏法とはこういうことである。よって仏法では、自らが悪行をしないようにする、自らが善行をしようとする、自らの心を清くしようとするという自発的な行動が不可欠となり、それが精進と呼ばれる。大切なのはここのところである。

 私たちはよくお寺や神社に行って手を合わせ、どうぞお護りくださいと祈る。僧侶も祈祷や回向の時に諸仏諸天善神が祈願者をご守護したまえと祈る。祈願者は守護札やお守りを授与され、それを自宅などに祀って諸仏諸天善神の守護を願う。しかし本当に諸仏諸天善神は祈願者を護ってくれるのであろうか。少なくとも諸仏は守護はしない。諸仏は私たちに仏法という智慧、仏道という進むべき道を示し、精進しなさいと言う。七仏通誡偈である。それが諸仏の教えなのである。しかし諸天善神は護ってくれる。但し無条件で護ってくれるわけではない。仏道を歩む方法を仏法というが、その仏法を学び理解し実践して仏道を歩む人々を護ってくれる。そのように諸天善神が誓ったからである。よって七仏通誡偈でいえば、諸々の悪行をしないようにする努力を怠ったり、諸々の善行をしようとする努力を怠ったり、自らの心を清くしようとする努力を怠ったりしている人々は、帝釈天もお稲荷さんも護ってはくれないのである。ろくに勉強もせずに大学などを受験しようとする不心得の受験生がいくら天満宮をお参りして手を合わせて合格祈願をしても、菅原道真さんは合格させてくれないのである。それなりに一生懸命勉強して準備したものが祈れば合格するのである。

 仏道はある意味で冷たい。目の前にある現実をそのまま受け止め、受け入れよと教える。但しその受け止め方、受け入れ方を智慧という形で教えてくれる。ボダナートと呼ばれるネパールのカトマンズにある仏塔には釈迦牟尼の目が描かれている。しかし口は描かれていない。何故なら釈迦牟尼は「もう仏道を歩むための智慧はあなたたちのために残してあるよ。私はもう口を開く必要はない」と、その目が私たちに語っているからである。