輪廻転生について

 輪廻転生とはもともとインド人の人生観である。それは飽く迄も人の頭の中で考えられ構築された概念であり、その範疇を超える事はない。一神教の宗教において神という概念が人の頭の中で考え出されたのと同じである。その場合近代の自然科学が発展すればする程矛盾する事柄が多くなってくる。
 では仏道において輪廻転生はどのように考えられているかというと、釈迦牟尼仏陀は輪廻転生を否定した…。と言いたい所だが実際には輪廻転生を語っている。部派仏教の経典中でも大乗仏典でも輪廻転生は登場し肯定されている。しかし仏陀はその輪廻転生からの解脱をその究極目標とした。ということは輪廻転生を否定しているといっても過言ではないのではないか。それにも拘らず、より多くの民衆を取り込むための迎合であり方便の手段であるとしても、大乗仏教の仏典中ではおおっぴらに輪廻転生が語られている。そうであるからには我々仏道を歩むものとしてはこのことについて語らねばならぬ。
 人は今の命が尽きたらまた生まれ変わるという。どのように生まれ変わるかというと、今の世で悪い事をすれば今より悪い立場や形態で生まれ変わり、逆に今の世でよい事をすれば今より良い立場や形態で生まれ変わるというのだ。そんなこと眉唾だ、誰がそんな事を客観的に証明できるのか、と思う。何故仏陀はこんな輪廻転生なんて語ったのであろうかと疑問に思う程である。思い切って否定して欲しかったと思う。しかし…、待てよ、と最近思った。私のような低レベルの人間はそんな風に輪廻転生の話をすると、すぐに下世話に、「今の意識のままの自分が生まれ変わるのかなあ」とか、そう言えば前世の事を覚えている人がテレビのバラエティー番組で紹介されていた、などと思いを馳せてしまう。勿論仏陀の言う所の輪廻転生はそんなようなものでなく、きっと意識や形態は全く新しいものとして生まれ変わるというようなものではないかと想像する。しかしそうなると前世の業の因縁はどのようになるのか。いろいろな疑問が湧き起こって来る。きっと輪廻転生とは現代の科学でいう所の遺伝子DNAということではなかろうか。仏陀はそこまで洞察力があってそのことも知っていた、と考えれば仏陀の偉大さを改めて思い知る事にもなる。私達の今生の行いがDNA遺伝子に書き込まれる。それが子孫に反映される。また私達の先祖の行いが遺伝子に書き込まれる。それが私たちの現在に反映される。まさにそれこそが輪廻転生である。そしてそれは飽く迄客観的であり、科学の発展とも全くもって矛盾しない。遺伝子の研究が進めば進む程、それが納得される所である。
 やはり仏陀は何もかも知っていた。何もかも察知、洞察していたのである。