祈りということ

 仏法とは真理の探究である。私たち人間の心理状態を絶対客観的に観察し、それを取り巻く環境と、それとの因果関係を分析して、その本質を悟り、涅槃寂静の境地に達するのが、仏法、仏道の目的である。よってそこに元来「祈り」はない。
 ところが釈迦牟尼仏陀以来凡そ二千五百年を経た現在の状況を看ると、仏法は宗教となり仏教と呼ばれている。特に大乗仏教では祈りが重要な位置を占める。理由はその成立時、仏法による衆生救済の慈悲の精神が強調された結果だという。日本仏教曹洞宗の祖道元は中国に渡って禅を極め、以心伝心不立文字の境地まで達して、只管打坐を提唱し、仏陀の悟りを徹底した出家主義を貫いて求めた。その道元禅師すらも、自らが開いた永平寺の講堂に「祈祷」の額を据える。いのりである。ただひたすら成仏を祈ったからであろうか。
 仏道修行者はひたすら釈迦牟尼仏陀の悟りの境地を求める。私もまた仏教者の端くれである。端くれであるが、それなりにその境地を求めている。縁起を観じ、一切空を観じてすべての執着から我が心を解き放ち、心自在を得ようと日々瞑想し、読経し、唱題している。もがいて悟れぬ暗闇の夜が明け、朝の法華経読経が救いの慈悲を垂れてくれる日々である。確かに道元禅師の祈りの欠片でも理解できる。
 然るに現在の一般仏教徒を見渡せば、目の前の願望の成就、それも仏道の達成などという高尚な祈りでなく、物質欲や金銭欲、出世欲等のものが大半である。また大乗経典もそれを後押しする。法華経の観世音菩薩普門品では殊更である。
 そんな思索に暮れていたある日、興味ある何編かの記事に出会った。ニュートンの物理学以来、それだけでは解決できない、実際に起こっている物理現象を追求する結果、生まれるに至った量子力学の話である。量子力学をここで説明せよと言われても簡単にできる話ではないが、要するに、この世の物理現象は量子という、物理量の最小の単位によって引き起こされており、それを分析して明らかにしようとするのが量子力学である。この分野の研究は未だ過程にあり、結論付けられてはいない。日々仏陀の悟りを求めるが如く研究に勤しむ量子力学の研究者による、ある興味深い研究結果がある。量子は規則的に運動するのではないのだという。まるでそれ自体が意思を持っているかのように行動する、または私たちが何らかの影響を及ぼした時、その意思が反映されているかのように行動するのだそうだ。その原因は未だ究明されていないが、現象として科学的に確認されている。
 また米国の量子力学者が、超常現象の原因を量子の性質に求めているという論文もある。二つの量子が結びついた後分裂し、それぞれの場所に離れても、お互いに影響し合うという性質があるという。仲のいい二人の人間が、お互いにしていることを感じ取ることができることがあるが、それはこの原理ではないかという仮説を立てて研究を進めているそうだ。
 いよいよ科学の進歩によって多くの今まで知らなかったことが解明されつつある昨今ではあるが、未だ未知の部分が多いのは言うまでもない。そんな中で以上のような発見や研究がなされているのは非常に興味深い限りである。もし量子が私たちの意思を反映して運動するなら、祈りは通ずる。正に祈りは通づるのである。このような現象の発見を見る限り、成る程ますます縁起の法則はその深さを増し、諸行無常の理はますます実証されるのである。