初心のための空仮中の三諦

 インドから中央アジアを経て中国に仏教が伝わったのは、一説によると紀元67年と言われている。それ以後多くの仏教経典が中国に流れ込んだ。一度に多くの仏典が流入したため、その成立年代や内容的な発展過程が明らかではなかった。6世紀に中国にあらわれた天台大師智顗は、これらのすべての仏典を読破し、教相判釈(きょうそうはんじゃく)といってそれぞれの経典の教えの内容を精査し、教えの発展過程や成立年代を推測して分類し、一大仏教哲学である天台学を構築した。

 その智顗の天台学において、大乗の般若経典の解説書(論書)を著しながら大乗仏教の空の思想を確立した龍樹の中観思想を発展させた、空・仮・中の三諦という哲理がある。

 大乗仏教の根本は空の思想である。この世のすべての事は空であり実体がなく、分かりやすく言うと、そんな実体のないものに執着する必要はない。執着するから苦しみが生まれるのである、とする。よって今我々が生活しているこの社会全体を仮(け)、即ち実体がない仮の世界と見て、我々は常に実体のないものに日々執着しつつ生きているというのである。しかしながら我々は、それが仮の世界と呼ばれようが、現実にこの社会で毎日暮らしているのである。それが現実である。それはまるで、ある人がこの世は汚れていて、その汚れたものに執着してばかりいて苦しみが絶えないから、いっそすべてを捨てて山奥に隠棲しよう、というのと同じである。山奥に隠棲してしまえば心安らかに暮らして行けるであろうが、現実問題としてそんな事はできない。我々は今現実としてこの世界に生きているのである。そこでこの汚れた仮の世界に住みながら、心は何事にも執着しない安らかなる空に保とう、というのが簡単に言うと中の境地である。泥沼に咲く蓮華はその中の境地に譬えられる。大乗仏教では蓮華は菩薩の象徴とされる。蓮華は汚れた泥沼(仮)に、その気高い姿(空)を保ちながら生息(中)するからである。

 この哲理、つまり仏陀の智慧は我々の日常生活において活用できる。我々は日常においていろいろな出来事や物事に執着する。ある時はその執着は物事や出来事を良い方向に向かわせる。ある時はその逆である。執着が物事や出来事を悪い方向に向かせようとしている時が、この智慧を使う時なのである。悪い方向に向かいそうな時に、その物事や出来事から一旦心を離してみる。それが空の境地まで高められずとも一旦心を空にするよう努力してみるのである。しかしその物事や出来事を無責任にも放り出す事はできないので、心は空に保ち現実問題としてことにあたるのである。

 仏陀の智慧は哲理として崇拝するだけでは、それこそ宝の持ち腐れである。実際我々の現実生活に応用してこそ、その真価を理解し体得し、自然とそれを崇拝するようになるのである。