執着ということ

 自らを執着から解放することは仏道の最大の目的の一つである。執着から解放されると真の心の自由自在を得ることができる。

 私たちは普段いろいろな物事や出来事に執着する。着るものに執着する。食べ物に執着する。住む所に執着する。乗る車に執着したり、持ち物にも執着する。つまり物質的にいろいろな物に執着する。この人がいい、あの人は嫌だなどと、人にも執着する。仕事や趣味のやり方や進め方など、自分の周りで起きる事、世の中で起きている事などにも執着する。根本的に生きる事に執着する。誰もが死にたくはない。そう考えると執着という事もピンからキリまであって、まんざら人生に全く不必要というわけでもない事がわかる。寧ろ人間として生きて行くのに必要不可欠な、または更なる向上を目指すのに必要な執着もある。だから一口に執着と言っても悪い事ばかりではない。ではどのような執着から自己を解放できると心の自由自在を得る事ができるのか。

 仏道に四苦八苦(しくはっく)という言葉がある。私たちの根本的な、ある意味で出会う事を避けられない苦しみである。四苦とは生老病死(しょうろうびょうし)であり、八苦とはそれに愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)を加えたものである。何故私たちはこれらの事で苦しむかというと、主にこの八つの事に執着するからである。

 生きる事に執着するから苦しいのだから、生きる事を諦めてしまえばいい。これではまるでニヒリズムになってしまう。そうではなくて、生きているうちには幸福も苦労もあるのだから、どちらが来てもそんなに執着しなければ、あまり落胆もしないし苦しみもしないという事である。諸行無常、つまりすべての事は移り変わるので、幸福も苦労も永遠には続かない。だから幸福が来た時もそれがずっと持続してほしいと執着すると、現実はそうではないから落胆する。苦労が来た時もそれは自分を鍛えてくれているのだと思って逃げたり避けたりする事に執着せずに受け入れてみる。その苦労も永遠には続かないから諦めて受け入れてしまえば気が楽になる。

 この世の生きとし生けるものはすべて年をとって老いる。しかし誰もが老いたくない。ずっと若いままでいたい。しかし現実はそうではないので、ずっと若くいたいという執着から離れて、真実を悟って諦めて、歳をとったら歳をとったなりに老いてきゃいいんだと、今風に言えば開き直ってしまえば気が楽になる。

 私たちは生きている以上病気になる。老いると尚更である。しかし誰もが病気なんてなりたくない。だからずっと健康でいる事に執着する。よって病気になると大変な事になる。何故病気になったのだろうと思い悩む。しかしよくよく考えてみれば生きている以上誰でも必ず病気になるのである。況してやこの高齢化社会において80歳も過ぎれば殆どの人の身体に癌くらいあるのである。人間生きている以上必ず病気になるのだと悟って諦めれば気が楽になる。

 私たちは今この世に生きている以上必ずいつか死を迎える事になる。残念ながら永遠に生きる事ができる人はいない。だから死ぬ事は別に縁起の悪い事でも運が悪い事でもなんでもない。皆平等にいつか死ぬのである。でも、やはり正直言って死にたくない。死ぬのは怖い。死んだらどこへ行くんだろう。何もなくなってしまうのだろうか。いろいろなことを考える。でも、いくらいろいろなことを考えても私たちがいつか死んでしまうという現実は変わる事はないのである。不老不死の薬は、金のなる木がこの世に存在しないように存在しないのである。だから私たちはここでも開き直って、ようし、生きる事ができる限り思いっきり生きて、決して後悔しない、死ぬ時に悔やんだりしない人生を送ってやろうと決意すれば、非常に前向きに生きる事ができ気が楽になる。

 愛する人と別れたくないのに別れなければならない、究極的には人間いつか死別しなければならない苦しみが愛別離苦であり、またこの世に生きる以上どうしても嫌な人とも顔を合わせなければならない苦しみが怨憎会苦であり、欲しがっても手に入らない苦しみ、要するに物質的欲望が満たされないで苦しむのが求不得苦である。五蘊盛苦とは、人間は「色(しき=肉体)・受(じゅ=感覚)・想(そう=概念)・行(ぎょう=意思)・識(しき=記憶)」という五つの集まり(五蘊)から構成されると考え、それらのはたらきに執着する苦しみであるとされる。

 私たちは生きている以上毎日のように前述したようないろいろなことが現実問題としておこる。釈迦牟尼仏陀はそれを分析して、これこれこういうような苦しみと必ず出会う事になるから心して準備しておいて、いざという時にそれに惑わされて我を失うような事がないように、と示してくださったのが仏道である。だからこの四苦八苦は仏陀が私たちに残してくださった智慧である。この智慧があれば執着から離れやすくなる。もっと前向きに取り組んで極めれば、これらの執着に対して心が自在に対応できるようになる。この仏の智慧によって心自在を得る事を、仏道を歩むという。