教育における哲学の必要性

 2013年12月5日、元南アフリカ共和国大統領であったネルソン・マンデラ氏がこの世を去った。氏は生前特に教育の必要性を説いた。氏の有名な言葉がある。

 "Education is the most powerful weapon which you can use to change the world.”

 和訳すると、「教育は、世界を変えるために使える最も強力な武器だ」となる。言葉の如く教育は重要である。しかしマンデラ氏の志しにも拘らず、アフリカ諸国で続く民族間紛争や内戦で、未だに多くの人々が苦しんでいる。そういったアフリカ諸国の指導者達もマンデラ氏の啓蒙を受け、無教養が無意味な争いを引き起こすことを自覚しつつ、各国において教育制度の確立や推進に真摯に取り組んでいる現状は、未来に希望の火を灯すものである。

 同じく中東地域における、多くの一般市民を犠牲とする権力闘争・内戦や、南アジアにおける女性への差別問題等、目を覆いたくなるような不合理な問題は、すべて無知・無教養という原因による結果といって過言でない。

 無知は仏法でいうところの三毒の一つである。三つの毒とは、貪欲、憎悪そして無知である。無知は無明とも呼ばれ、諸悪の根源とされるのは誠に納得のいくところである。

 しかしながらその教育にも仕方というものがある。東アジア諸国に波及している、ただの詰め込み方式の教育であるならば、その結果は創造性の欠如とか利己的な人間を育ててしまうなどの結果を既に生み出している。教育にはその根底の哲学を教える大前提が必要なのである。

 それではその大前提の哲学とは如何なるものか。そんなに難しいことではない。例えば、ある日テレビの番組を見ている時、三人の若者の対話があり、場所は茶席であった。茶道の作法に則り茶をいただく場面であったが、若い茶道教授がそれを教えていた一場面があった。茶道の作法では、客は茶を立てる亭主の前に一列に座る。最初の客が茶を差し出されて、先ずそれを次の客と自分との間に一旦置き、「お先に頂戴します」と軽く会釈し挨拶する。それは次の客への思いやり、気配りである。茶道の極意である。その番組の中で若い教授は、「はい、先ず茶碗を次の客との間に置いてください。そして〈お先に頂戴します〉と軽く会釈しご挨拶をしてください」と教えた。それが間違いである。言われた方は何故茶碗をそこに置かなければならないのか、またその挨拶をしなければならないのか理由が分からない。これをもしその教授が「次の客への思いやり・配慮を示すために、先ず茶碗を次の客の間に置いてください…」と教えたらどうであろう。教えられた方はその理由がよく分かり、会釈の仕方も言葉に籠る感情も変わってくるであろう。

 方法論を先行させ、それを丸暗記式に詰め込み、形を作ってから全体を考えてみよ、と教えるより、その基本的な哲学を教え、納得しながら、考えながら自らがその形を作った時に、既に全体像は十分に、その精神とともに把握されているのである。そういう教育法を発展・持続していけば、自ずから創造性に富んだ、他への思いやりに満ちた人材が育てられるのではないか。

 

堅い話ばかりで申し訳ありません…。実際私はそんな堅い人間ではないのですが…。

ジャズピアノでも聞いてデラックス…いや、リラックスしてください。

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