良質の「成長」に必要なもの

 口を開けば「成長、成長」と、より一層の経済成長を促す声は、ここ日本ばかりでなく世界中で聞かれる声である。確かにこの世界には今だ発展途上にあって大きな成長が見込まれる国や地域が多くある。また一方で、成長しきっているのに周りにあるその恩恵に満足できないのか、はたまたそれが見えないのか、未だ「成長、成長」と捲し立てる国々もある。物には限度が、または限界があるということが分からないのだろうか。この世のどこかに金のなる木でもあると思っているが如くである。

 何れにせよ世の人々が挙ってより一層の経済的成長を願うというのは、人間としての本能、もしくは仏法的に言えば煩悩であるのだ。人間の貪欲、物欲には限度がない。仏法では「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒」といって人として戒めるべき、というよりはその本質をよく知って制御するべきものである。瞋とは怒ること、恨むことをいい、痴とは無知、知識がない、無教養である、即ち知らないということである。貪も瞋もみな無知より生ずという。無知は無明ともいう。ということは貪欲を制御するには知識をつける、教養をつければうまく制御できるということである。そこで大切なのは教育である。良質の成長には良質の教育が必要なのである。

 現在でも良質の教育が施されている国や地域には精神性の高い幸福感が育まれる。北欧諸国等での高い福祉水準や平等性などはその効果の顕われと言えるのではないだろうか。一方、質の悪い教育は質の悪い幸福感を育む。全体が見えず考えられず、利己に走る成長は貧富の差を広げ世の中全体として不幸になるだけである。それでは良質の教育とはどういうものであろうか。それは哲学を伴った教育である。哲学を伴わない教育は只の方法論にしか成り得ないことがある。例えば数学を学ぶにも、何故我々は数学が必要なのかを哲学する必要がある。そういう意味で欧州における哲学教育はアジアのそれよりかなり発展しているらしい。初等教育から哲学を取り入れているそうである。アジアには仏法(仏教)という素晴らしい哲学が存在する。宝の持ち腐れである。これを使わぬ手はないのではなかろうか。

 現代社会は分野の専門化が進んでいるといわれている。コンピュータのことが得意だったらその知識にだけ秀でれば、他ができなくとも世の中で通用するというようなことである。ところが一方で統合学のように、すべての分野は関連し合っているので統合的に思考することが必要であるというようなものである。自然に考えれば至極当然の論理である。世の中のすべてのこと乃至ものはそれだけで独立しているものはなく、すべてが因果律によって関連し合っているのである。私の知人は、この統合学の誕生に関わっており、それはドイツで行われた。彼の専門はそれまで脳化学であったが、その分野の研究だけでは解決できず統合学に傾いた。彼の研究の一例は、脳化学としての人間の思考における発火作用を、仏典の妙法蓮華経に説かれた「一念三千」という哲理のよって数式化することであった。

 このこと一つをとっても哲学に基礎をおいた教育というものは良質の教養と成り、良質の幸福感が育まれる。その上で今一度経済成長ということを見直せば、自ずからその行くべき道が明らかになってくるのではないだろうか。

 

まあ、ジャズピアノでも聞いてください。

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