法華経における五何法と十如是

 これだけはどうしても伝えておかねばならぬので、厄介だけど…、坊さんじゃない人は「なんじゃこれ」みたいな記事ですげど敢えて書きました。

 

 西暦6世紀頃に中国に出現した仏教僧智者大師智顗(ちぎ)は、インドから一度に入って来た多くの仏典の内容をすべて精査し、天台学という一大仏教哲学を構築した。それは「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」と呼ばれ、智顗はそれぞれの経典の内容によってその教えの高低・深浅により優劣をつけ、釈迦牟尼仏陀の一生のうちどの時期に説かれた教えかということを判定し解釈したのである。

 釈迦牟尼仏陀が悟りを得てからの一生を五つの時期に分け、仏典の教えの内容の高低・深浅によって八つ教えの種類に分けて配当した。よってそれは五時八経(ごじはっきょう)と呼ばれる。五時八経についての詳細は、別に述べる事として、その五時の最後は「法華・涅槃の時」と位置づけられ、釈迦牟尼仏陀の教えが最高に熟された時期と解釈された。そこに当てられた経典はその字の如く、法華経(妙法蓮華経)と涅槃経(大般涅槃経)である。よって天台学では仏陀の教えの最高峰は法華経であると判定・解釈する。

 この考え方は、近代の仏教学の発達に伴い、実際それぞれの経典の成立年代が科学的に概ね証明され、必ずしも歴史的事実ではないことが判明しているが、諸経典の内容を精査する上では非常に重要な分類方法と考えられる。そのことはこれを構築した智顗自身も、天台学に基づいて勉学研鑽を積んだ日本仏教における鎌倉時代の祖師達もすでに承知していたものと思われる。
(そのことは、鎌倉仏教祖師の一人である日蓮もその著作「守護国家論」で、「大部の経、大概(おおむね)是の如し。此れより已外(いげ)諸の大小乗経は次第不定(しだいふじょう)なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く。みな義類(ぎるい)を以て之を収めて一処に置くべし」と述べている。)

 さてそれでは智顗は、如何様に法華経を釈迦牟尼仏陀の最高の教えであると位置づけたのか。その理由として、法華経の仏教における総合統一性が挙げられる。法華経の内容を精査すると、それまで部派仏教と大乗仏教に分裂した仏教を統一しているし、多くの仏国や浄土が説かれていた世界観も、実際我々が住む娑婆世界に統一され、そこに居られる仏陀も娑婆世界の久遠実成釈迦牟尼仏陀に統一され、他国の多くの仏陀は皆その分身であると説かれている。よって経典成立当時分裂していた教えや信仰を統一している法華経が、最高位であると位置付けられたのである。

 また智顗は法華経方便品に説かれる「十如是(じゅうにょぜ)」という教理から、「一念三千(いちねんさんぜん)」と呼ばれる哲学を構築し天台学の根本教理とした。一念三千とは、一念の心に三千の諸法(この世で起こっているすべての出来事や、存在する物事)を具えることを観(かん)ずるという、観法である。観法とは、 意識を集中させ,特定の対象を心に思い描くことによって真理を認識しようとする、仏法における修行法である。

 この一念三千の基となった十如是とは、宇宙の森羅万象(諸法実相)は「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」という十の要素を持つということである。この根本教理が著されている法華経は、西暦4世紀から5世紀頃にかけて中央アジアに出現した訳経家の鳩摩羅什(くまらじゅう=クマラジーバ)によって、サンスクリット語かその他の中央アジアの言語から中国語に翻訳された。近年そのサンスクリット語版を入手する事は容易いが、その原典の方便品の十如是の部分は、十如是でなく「五何法(ごがほう)」と呼ばれる五つの要素が書かれているのである。鳩摩羅什は原典法華経の五何法を十如是に発展させたのである。
 実はそれは鳩摩羅什自身が直接したことではなく、既に龍樹(ナーガールジュナ)の大智度論という経典の注釈書の中で十如是に近い解釈がなされている。龍樹は大乗仏教を教理的に確立した人物であり、大乗仏教の中観派という流れの祖とされた。鳩摩羅什は大乗仏教中観派の僧として出家した。そこに確かに繋がりがあるのだ。
(羅什が利用したと推測されている「大智度論」の箇所は、「大智度論巻三十二」の
「一々の法に九種有り。
一には、体有り。
二には、各々法有り、眼耳は同じく四大造なりと雖も、而も眼のみ独り能く見、耳には見る功無きが如し。また、火は熱を以て法と為し、而も潤す能わざるが如し。
三には、諸法各々力有り、火は焼くを以て力と為し、水は潤すを以て力と為すが如し。
四には、諸法は各々自ずから因有り。
五には、諸法は各々自ずから縁有り。
六には、諸法は各々自ずから果有り。
七には、諸法は各々自ずから性有り。
八には、諸法は各々限礙有り。
九には、諸法は各々開通方便有り。諸法の生ずる時は、体及び余の法、凡て九事有り。此の法には各々体法有りて具足するをしる」との文である。)

 五何法とは、宇宙の森羅万象(諸法実相)は、「何等法、云何法、何似法、何相法、何体法」という五つの要素があり、「何等法」とは、何であるのか。「云何法」とは、どのようにあるのか。「何似法」とは、どのようなものであるのか。「何相法」とは、どのような特徴を持つのか。そして「何体法」とは、どのような固有の性質を持つのか、である。

 西暦7世紀にでた中国の訳経僧玄奘 の「妙法蓮華経玄賛」では、十如是を五何法に次のように配当している。如是相と如是性とは、合わせて第一の何等法。如是体は第五の何体法。如是力と如是作とは合して何似法。如是因・如是縁・如是果・如是報は合せて第二の云何法。…如是本末は第四の何相法である。

 法華経は五何法がその原典であり、従って十如是を基とする智顗の一念三千は成り立たないとう説があるが、それは一念三千の三千を数としてしか捉える事のできない無知の愚説である。

 以上のように、法華経サンスクリット原典では方便品に、宇宙の森羅万象の分析法として五何法が説かれ、その教理が鳩摩羅什の漢訳では十如是に発展した。それには龍樹の大乗仏教における空の義の確立が大いに寄与しているのである。鳩摩羅什が発展させた十如是は天台大師智顗の一念三千の哲理に発展し、伝教大師最澄はそれを日本に持ち帰る。そこで勉学研鑽に励んだ日蓮はいよいよその一念三千を、事の一念三千として発展させ、私たちの日常生活に深く関わらせたのである。

 

大変読むのが難解な文章ですけれどすみません…。でもとても大事だと思います。

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