超常現象について

 1992年頃だったであろうか、当時私は米国ハワイ州ホノルルにあるハワイ日蓮宗別院というお寺で、副主任という立場でお坊さんの仕事をしていた。その日は週に一度の休日だった。仕事の合間に弾いていたギターの弦を買い替えようと、カイムキという街に行った。車を道沿いの駐車スペースに停め車外に出て楽器店に向かう途中、辺りが急に暗くなった。まだ昼の3時頃だったと思う。とても奇妙な気持ちになり空を見上げると、暗雲たれ込めるわけでもなく青空が…いや、既に薄暗くなった青空が広がっていた。SF映画を観るのが大好きである私の心をすぐに過った不吉な予感。何かこの地球にとってよくないことが起きるのではないか、と心配になり辺りを見渡すと、人々は平気な顔をして普段通りに街を歩いている。これは尋常ではないと感じた私は楽器店で何事も起こっていないかのような顔をしてレシートを渡す店員をあとに用を済ませ、小走りで車に帰り急いで帰宅した。帰宅する頃には空は少しずつ元の明るさを取り戻しつつあった。周囲の人々はこの異変に何故気が付かないのか。それとも自分だけ何か特殊な能力があってこの異変が見えるのか。テレビをつけた私は、次の瞬間驚きと共に安堵の気持ちに満たされた。その日は日蝕が起こったのである。部分蝕で真っ暗にはならなかったらしい。我ながら自らの無知に呆れるばかりであった。
 日蝕とは地球と太陽の間に月が入り、月の影が太陽を覆う状態をいう。今時そんなことは皆知っている。だから人々は何も起こっていないような顔をして通りを普段通り歩いていたのである。これが近代天文学がなかった時代であったらどうであろう。きっと世の人を挙って驚き、畏れ必ずや何か不吉な事が起こるに違いないと思うだろう。今風に言えば超常現象である。日蝕ばかりではない。地球のメカニズムを知らない頃は、地震や火山の噴火等もさぞ驚きであり恐れであったであろう。雷など、急に暗雲立ちこめ大きな雷鳴と共に稲光が四方八方に走る様子は、正に神が怒っているに違いないと考えたであろう事は想像するに易い。私たちは知らない事に畏れる。人知で計れない事が起こると恐れ戦くのである。だから死に対しても恐れ戦く。死んだら何処へいくのだろう。どうなってしまうのだろう。魂はあるのだろうか…等、知らない、分からないから恐れ戦くのである。
 自然科学の発達に伴い、我々も自然に対する知識が豊富になってきた。だから昔のように畏れる事は少なくなってきた。しかしながら、いくら自然科学が発達したからといってすべての自然現象が科学で解明されたわけではない。寧ろ私たちは、現在においても氷山の一角しか知らないと言った方が適当であろう。だからまだこの世の中には恐れ戦くものが沢山ある。その知らない事をまとめて超常現象と呼んだりする。超常現象はその発生の因果関係が解明されていないため、往々にして宗教と結びつけて見做されがちである。日蝕や雷が神の怒りに違いないと想像するようなものである。よって将来自然科学の益々の発展により人類の知識がもう少しその範囲を広げた時、「21世紀初頭の人々は、死霊が彷徨って災いを起こすなんて信じて恐れていたんだって。おもしろいね」なんて未来の人々に笑われかねないのである。そのように現在その因果関係が科学的に解明されずに一括して非科学的として見做されている事柄も近い将来解明されるかもしれないのである。
 寺でお坊さんをしているといろいろな人々が相談に来る。特に上記のような超常現象に遭遇した人々の話は興味深い。当初は私も半信半疑だったが、これだけ事例があり更には自らも体験したりすると、そんな非科学的な事は起こりっこない。あなたの深層心理が反映された幻想や妄想に過ぎませんよ、などと片付けられなくなってくる。死霊が見えるという人がいる。少なくない。でも普段そんな事を口走ると気違いだと思われるから黙っているという人が多い。そんな事を描写した西洋の映画もある。
 これもハワイでの話であるが、ハワイでにはカフナという土着の霊能力者が存在し、死霊や悪霊、動物霊の話が現在でも絶えない。ある日お寺に一本の電話があり、自宅に悪霊が出たから悪魔払いして欲しいという依頼があった。映画のような話だが実際にあるのである。悪魔払いを行うエクソシストのような気持ちでそのお宅に伺った。かなり深刻そうな顔で、子供たちは危険だから祖父母に預かってもらっているという。依頼者は中年の男性で、しきりに自分の事を気が狂っているのではないと言っていた。誰もいない家の内部に通され、子供部屋から大きな獣のような声が聞こえて恐ろしくていられないと言うのである。そんな馬鹿なことが、と半信半疑で、「それでは仏典を唱えて悪霊を成仏させるから」などと心中方便と思い意を決して読経を始めると、なんと本当に獣のような大きな声がするではないか。それも家の縁の下から天井まで響くような恐ろしい声である。流石の私も怖くなったが、そこが子供部屋であったので何か玩具のスイッチか何かが入っているのではと調べたが、そのようなこともなかった。依頼者も「自分も最初はそう思って調べたがそのような玩具はない。聞いただろ。あの声。おれは気が狂っているんじゃないよ」と真剣な顔つきで言う。その日はそれで帰宅したが、その世寺の駐車場で野生のイノシシが叫ぶような声が長く続いた。あまりのうるささに窓を開けて駐車場を見てみると何もいない。不思議な事に周りの民家の番犬達は一頭として吠える事もなかった。それも怖いと思った私の深層心理を反映した妄想か、はたまた悪霊の為せる業か。未だに不可解である。
 仏道においては因果律をいう。すべての物事・出来事には原因と結果があるとみる。よって超常現象にも原因と結果があるとみる。だから仏道において奇跡はない。上のような出来事もその因果関係がいつの日か解明される日が来るかもしれない。だから無闇矢鱈に恐れる必要はない。そんな事に執着する必要もない。死霊が科学的に存在してもいいではないか。もし存在するとしてもそれはきっと微力な存在である。常に助けを求めている。弱い犬程よく吠える、という。きっと何とか私たちの注意を引いて救って欲しいのである。それを知らないから私たちはそれを恐れ戦いてしまうのかもしれない。仏陀の大慈悲を持ってすべての衆生を救いたいという心があれば死霊に対しても、超常現象といわれる未知の出来事に対しても恐れ戦く必要はない。

 

それではジャズピアノを一曲どうぞ。

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