肩書きのない生き方

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前衛芸術家 篠田桃紅

篠田桃紅という日本を代表する水墨による抽象画を書く芸術家がいます。現在106歳です。43歳の時、単身ニューヨークに渡り、その作品は世界的に評価され有名になりました。当初日本ではあまり有名ではありませんでしたが、その後、水墨がニューヨークの乾燥した環境に馴染まないことを悟ってから日本に戻り、現在まで創作活動に専念しています。勿論現在では国内外を問わず押しも押されぬ有名な芸術家です。

彼女は渡米前数年書道芸術院という所に所属していましたが、それ以降一切の、芸術家の組織ですとかそういうものに所属したことがないそうです。一切の肩書きなしで、ただ一人間、一芸術家篠田桃紅として世界的な高評価を得ています。

私達の社会において、「肩書き」によって人々を評価する傾向があります。中身が大したことのない人物でもその肩書きが知られるや否や特別に扱われたり、人々が相手のその肩書きによって態度を変化させたりすることが多々あります。世の中には実力でその肩書きを得た人もいれば、世襲や成り行きで実力以上の肩書きを持つ人もいます。

そういう意味において、前述の篠田桃紅さんは、当初国内で評価を得ず、日本の書道協会や芸術家協会が見向きもしなかったにも拘らず、世界で有名になって帰国すると途端にいろいろな組織からやれ会員になってくれとか、顧問になってくれとかお誘いがあったそうですが、全てお断りになられたそうです。なんと痛快ではないですか。実力一本で世界に君臨し、106歳になる現在でも活躍し続ける墨象芸術家の篠田桃紅さん、その著書はまるでブッダの言行録のようです。

(『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』幻冬舎、等)

私が現在住んでいるマレーシアのペナンで、とても興味深い人物に出会うことができました。その方とはペナンにおける剣道の稽古で知り合ったのですが、出会った時肩書きというものを全く持っていませんでした。しかしながら人間として大いに魅力のある人物であることは、一瞬にして察することができました。久しく親交を結ぶうち、いろいろとその経歴が判明して来ました。氏によると、お父上を早く亡くし人生の無常を感じ、経営者、社長として切り盛りしていた工場を50歳の時に閉め、ヨットにて単身大海原へ航海に出たのでした。韓国、台湾、香港と渡り、東南アジアを経てインド洋まで航海し、最後にマレーシアのペナンにヨットを停め、居心地の良いペナンにて長期に亘って住むことになったそうです。大海原では肩書きもへったくりも何も通用しないのは言うまでもありません。酒を酌み交わすうち、フィリピン沖で海賊に襲われそうになったこと等非常に興味深い武勇談をおもしろ可笑しくしてくれました。氏の航海記であるブログを読むのに夢中になり、寝るのも忘れて読んでいる私に女房がヤキモチを焼くこともありました。ブログの内容を女房に話し、以来夫婦で氏に「阿羅漢さん」というあだ名をつけました。それはまるで本当に仏教の阿羅漢のように悟りの境地に達しているかのような氏に対する敬意の表れでもありました。

私は氏の偉大さから、肩書きなど持たなくとも真の人間性はその人物自ずから醸し出されるものなのだということを学び、大いに刺激を受け、願わくば氏のように生きたいと願うようになりました。氏は小畑正憲さんといって、現在74歳(くらい)ですが、現在は奥様と京都に住み、京都造形芸術大学に入学、以前から得意だったイラストレーション等の芸術を学んでおられます。

上記のような出会いは著書であろうと、実際に出会うことであろうと、私の人生にとって大いなる啓発であり、今に至って全ての肩書きを捨て去ろうという決心に繋がりました。全ての肩書きを捨て去った後、出会う人々がどんな態度や気持ちを持って私に接してくるのか楽しみであり、また自分自身どれだけ肩書きなしで他を魅了できる人物になれるかが、これからの人生の励みにもなるのです。

須弥山思想って?

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新潟県と長野県の境にある妙高山ー妙高山とは須弥山のことです。

須弥山(しゅみせん)思想とは古代インドの宇宙観です。

この宇宙観を知っていると、普段私達が使っている日本語がより深く理解できます。

例えば、「有頂天になる」とか、「金輪際会いたくない」とか、「奈落の底に落ちて行く」等の意味がよく分かるばかりでなく、その言葉の表す度合いや深さも理解できます。要するにどれくらいいい気分になるとか、どれくらい会いたくないのかとか、どの程度落ちてしまったか等ということがよく分かります。

更にはこの宇宙観を知っていると、仏教の経典がより簡単に理解できます。「閻浮提(えんぶだい)」とか、「鉄囲山(てっちせん)」とか、「三十三天(さんじゅうさんてん)」等サラッと分かって、お経を読んで行く上で意味をとるのにつっかえずに読み進めます。

その昔西洋で天動説があって、少年が大人に尋ねます。

少年「この陸地をずっと歩いて行くと何があるの?」

大人「ずっと歩いて行くと海があるんだ。だからもう歩いては行けないんだ」

少年「じゃあ、その海を船でずっと行くと何があるの?」

大人「ずっと船で行くと、そこには世界の果てがあるのだ。だからその先には行けないんだ」

少年「でもそれでも進んでいったら何があるの?」

大人「だからその先は世界の果てで…ううん、そう!大きな滝になっていてもうその先には行けないんだ」

少年「それでもその滝を落ちて行ったら何があるの?」

大人「だからその滝を落ちたら…、もう真っ暗闇で何もないんだ…」ってな世界観があったようですが、須弥山思想もそう言ってしまえばそのようなものかも知れません。

そう、天動説です。

頭の中で次の光景を思い浮かべて見てください。

この世は須弥山という大きなとても高い山を中心として日と月がその周りを回っているのです。その山は、先ず風輪と呼ばれる円柱形の巨大な風の輪が虚空に浮いている、そしてその巨大な風の円柱の上に直径が少し小さな、小さなと言っても相当大きいですが、水輪という円柱が乗っている、それは水なのですが、その水輪の上に直径が同じ程の金輪という円柱が乗っている、その中心に位置するというのです。よって私達が行くことの出来る限界が金輪までで、その際が金輪際、つまり真底ということです。そう、金輪際会いたくないというのは、どれくらい会いたくないのかよく分かりますね。因みにこの金輪の一番外側を山々が囲んでおり、それを鉄囲山といいます。

須弥山はとても高く、その頂上に三十三天、これは天が三十三あるという意味ではなく、三十三の神がいるということですが、その王といわれる帝釈天が住んでいるそうです。これはインドのインドラ神のことです。須弥山の上にはもっと精神的な世界があり、その最高の地点が有頂天だそうです。それくらい気分がいいのか、よく分かりますね。

金輪の表面は海で、須弥山を中心に四つの大きな島が四方に位置します。その中の一つが閻浮提と呼ばれ、私達が住んでいるところです。

更には、須弥山の内部、それも金輪から下には地獄があり、その地獄も八段重ねで一番下が無間地獄(むけんじごく)だそうです。因みに地獄はインドの言葉で「ナラカ(naraka)」といい「奈落」の語源です。ですから奈落の底とは地獄の、それも無間地獄の底ということで、奈落の底に落ちるというのはとんでもなく落ちるのだということがよく理解できます。

このようにちょっと須弥山の宇宙観をかじっても日本語の言葉の意味がよく分かります。日本の文化が如何に仏教文化に根差しているかがよく分かるのではないでしょうか。それを知らないのは現代日本人だけということでしょうか。

是非皆さんもこれを機に興味をお持ちの方は須弥山思想の本を読むことをお勧めします。私は縁あって若い頃(今も若いのですが)講談社現代新書の定方晟(さだかたあきら)著「須弥山と極楽ー仏教の宇宙観」という本を読み、その後仏教僧侶となりお経の意味をとるのに非常に役立ったという経験があります。

最後に、新潟県と長野県の境に位置する妙高山は、その須弥山をイメージして名付けられたようです。妙高とは須弥山の意訳です。よくスキーをしに行き、ゲレンデが快晴の日には本当に須弥山のような美しく偉大な姿に思わず手を合わせたものでした。

フェンタニル戦争?

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昨今のアメリカ合衆国内において、薬物の蔓延が大いなる社会問題となっているようです。

「世界で薬物の直接的な影響による死者は、2015年で約17万人。そのうち最多の死者を出しているのが米国だ。17年に史上最多の7万人以上が過剰摂取で亡くなった。特に深刻なのが、オピオイド(麻薬系鎮痛剤)などの広がりだ。トランプ大統領の支持が根強いラストベルト(さびついた工業地帯)を歩くと、まったく別の深刻な薬物蔓延の光景が広がっていた。」

医師がオピオイドを過剰に処方し、蔓延していったのだそうです。主な薬物依存者は白人で、ある程度社会的地位があった人々だそうです。薬物蔓延の背景に透けて見えるのが、人々の経済的な「痛み」です。そう貧困が薬物蔓延を促しているのです。

それに輪をかけて最近ではフェンタニルという鎮痛剤が流行しているそうです。フェンタニルとは合成オピオイドの一種で、モルヒネの50~100倍強力なんだそうです。何しろ安価で手に入りやすい。よってその使用量は年々増加の一途を辿っています。

このフェンタニルの主な供給源とされるのが、中国だそうです。

えっ?私はここで過去に起こった中国のアヘン戦争を思い出しました。

当時、清の国から絹やお茶を大量に輸入していた英国は、清に買ってもらうものが少なく大きな貿易赤字を抱えていたそうです。そこでインドで採れたアヘンを清に流し利益を得始めました。清の国が再三に渡って禁止してもそれは止まらなかったそうです。理由としては当時の清の経済発展による人口増加から格差社会が生まれ、貧困層が増加、貧困に喘ぐ多くの人々がアヘン依存者となりました。アヘンの受け入れを拒む清との間に、英国は戦争を起こしました。そして圧倒的な勝利の末、強引に不平等条約の締結に至り、欧米列強はそれに追従して英国と同じような不平等条約を清と結びました。アヘンで清を駄目にしてしまったんですね。

そして今、アメリカ人が中国から供給される安価で手に入りやすい薬物、フェンタニルによって薬物依存者蔓延の危機に直面しているのです。

両者の共通点は貧困が原因で薬物蔓延が起きている点です。

世界情勢の現状に鑑みると、将来的に米中間の戦争には発展しないでしょうが、何か因縁を感じ得ずにいられません。

選挙、選挙、そして選挙

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統一地方選挙なるものが始まり、私の住む所でも選挙カーが引っ切り無しに来襲しうんざりしています。なんせこの度は市議会議員選挙ですから、市長選などと違って候補者の数が多い、その分やって来る選挙カーも多いわけです。

どうしてうんざりしているかと言うと、私には選挙権が無いからです。とっくに海外移住に向けて住民票を抜いてしまいました。入れておくと市民税、県民税、健康保険税、国民年金保険料等大変多くの税金を払わねばなりません。何しろ今はここに一年の半分ほどしか住んでおらず、家族はとっくに海外移住してしまったものですからそのような税金は払いたくありません。

住民票を抜いて、しめしめこれで税金を請求される事はないと思いきや、督促状の嵐です。住民票はないと市役所の課税課に抗議したら、今年の税金は去年の所得に対してかかっているとのこと、無視していたら、ある日私の預金口座から強制的に差し押さえられました…。市役所に電話をかけて「あんたらヤクザか!?」と文句を言おうとも思いましたが、妙にスッキリした気分になったのでやめました。

話を選挙に戻します。

周知の通り日本では公正な選挙が行われています。しかしながら全世界規模で見てみると、未だ公正な選挙が世界中で行われているとはとても言えない状況です。

ある時、移住先のマレーシアで総選挙が行われました。日本と違って選挙カーは来ませんでした。その代わりそこいら中で大規模なパーティーが催され、多くの人々が食えや歌えや踊れや(マレーシアでは国教がイスラム教なのであまりお酒は飲みません。)と大騒ぎをしていました。後日話を聞くと、パーティーに参加した人々はご馳走になった帰りに署名し、ICナンバーという全国民が一人一人持つ番号をパーティーの主催者(勿論選挙の候補者)に差し上げる、つまり日本で言えば個々の投票用紙を差し出すのだそうです。当然パーティー中に現金が配られた事は察しができます。候補者はバングラデシュからの出稼ぎ労働者にそのICナンバーを与え、投票させるのです。それも一人に2〜3回投票させたりするものですから、訳のわかっていないバングラデシュ人などはマスコミの取材に対して、一度投票すると手の指に黒インクを投票所の職員がつけるのですが、それが二つも三つもついた手をカメラの前で笑顔で振って見せているのです。選挙前にバングラデシュから何万人もの労働者を連れて来たなどというニュースも聞きました。

そのような選挙違反がある意味堂々と行われていました。そう、あの悪名高きナジブ前首相の選挙の時でした。ナジブさんは国の発展のためと言って国民から集めた大金を水のように使い込んで、文句をいう人々を監獄にぶち込んでいたような人でした。政治家として師匠に当たるマハティールさんまでも牢屋に入れました。流石にこれではいけないと思った多くのマレーシア人の期待に反し、そのような堂々とした選挙違反によって再選されました。

そこでごうを煮やした元首相のマハティールさんが、自らの政党に反旗を翻しナジブさんを首相の座から引きづり降ろすため、旧政敵達とも手を組んで立ち上がりました。

昨年5月上旬でしたか、丁度その時マレーシアの首都クアラルンプールから高速道路で自宅のあるペナンまで向かっていた時の事です。なんとその次の日が総選挙の投票日、今までにない数のマレーシア人、マレー人も華人もインド人も一致団結して投票しようと帰宅の途についたものですから、高速道路は大渋滞。いつもなら5時間くらいで着くところが12時間かかってやっとペナンの自宅に戻れました。今回はパーティーに呼ばれても簡単にナンバーは渡さなかったようです。ついにマハティールさんは首相に返りざき、国民は大歓声でした。私も、勿論選挙権はありませんでしたが、国の為に団結したマレーシア人の様子を目の当たりにし、胸に熱いものがこみ上げて来るような感動に浸ったものです。これを機にマレーシアにおける選挙もある意味公正な選挙に近づいたものと思われます。

考えてみればまだまだアジアにおいても公正な選挙が行われている国や地域は数える程です。日本人としては想像もつかないでしょうが、それが事実なのです。公正な選挙が行われているのは日本、韓国、台湾、香港の特別行政区、シンガポールくらいではないでしょうか。あとの国々では残念ながら選挙違反は当たり前みたいな風潮が否めません。日本でも私が子供の頃、選挙の度に現金入りの封筒を配りに来る人がいたのを覚えています。日本ですら何十年か前はそのようだったのですから、発展途上の国々ではまだまだなのは無理もありません。

現在インドネシアとインドで大統領選挙と総選挙がそれぞれ行われています。実情を知っていると、いろいろなニュースを聞いている中で、「何ウソ言ってやがる」と思うことも多々ありますが、マレーシアで起こったことを思い返してみると、そのような国々でも徐々に、徐々に公正な選挙が行われる未来が近づいているのではないかと、それは昨今の春風をとうとう体に感じたような爽快感をもって感じています。

現代インドにおける仏教(2)

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布施を受けるインド新仏教徒の僧侶達(龍宮寺において)

さて、前回は現代インドの仏教を語る上で欠かせない人物、アンベドカール氏について少しく書きました。氏は1956年10月、インド中央部のデカン高原に位置するナグプールに於いて50万人と云われる不可触賎民階級の人々と共にヒンドゥー教から仏教に改宗したのであります。アンベドカール氏は、「Buddha and His Dhamma」という本を著し、氏の仏教に対する理解と、改宗した人々に対しての仏教徒としての指針を与えました。本書で、氏は徹底的にゴータマ・ブッダの生涯を、何の矛盾や装飾的伝説も排除し解き明かし、仏教徒としてどう生きるべきかを考え抜いた氏の葛藤が随所に伺えます。日本語訳本も出版されています。

問題はこの後です。上記の本が出版されたのは1957年ですが、何とアンベードカル氏が持病の糖尿病を悪化させ集団改宗の約2ヶ月後、即ち1956年12月に亡くなってしまったのです。

よってインド新仏教徒の人々は、進むべき道を案内してくれる筈のリーダーを失ってしまいました。以後彼等は氏を恋慕し「ジャイ・ビーム」、つまり「アンベドカール万歳」と合掌して口にするようになったのです。

その後インドの新仏教徒は進むべき道を模索してスリランカやタイから僧侶を招き、宗教的指導者として仰いだり、外国から来た仏教僧侶のもとその活動を繋いで来ました。特に日本の真言宗僧侶であってインドに住み着いた佐々井秀嶺師は有名でありますが、仏法に反するような暴力的行動を扇動したことは非常に残念であり、以後インド新仏教徒による仏教復興運動は、カースト上位の人々からは「あれは不可触賎民の人権運動だよ」と一蹴されてしまうようなことにもなったのです。

インド政府は佐々井師のブッダガヤ奪還運動等による人民の扇動を無視できず、毒は吸収し暴れさせないためにも佐々井師を政府の少数派委員会の委員に任命します。

そのような紆余曲折がありながらもマハラシュトラ州ナグプールを中心とする新仏教復興運動の流れは脈々と繋がれていきました。現在その仏教徒の代表としてナグプール近郊のカンプティという小さな町の出身の弁護士でマハラシュトラ州水道衛生大臣も経験したスレーカ・クンバレという女性がいます。凡そ20年程前ある日本人の援助を受け、The Dragon Palace Temple、日本名で龍宮寺というお寺をカンプティに創建しました。その規模の大きさといったら日本の中規模都市の市民体育館ほどあります。日本の日蓮宗と強いパイプを持ち、現在はナグプール地区の観光の要所として、州政府の援護のもと発展途中です。寺院はメディテーションセンターやアンベドカール記念館、更に将来的にはホテル、遊園地、職業訓練施設等の建設が計画されています。

実は私は縁あってこの龍宮寺の建立に深く関わりました。ですからこのスレーカ・クンバレさんとは姉弟(私が一歳年下です)のように現在でも交流しております。彼女は佐々井秀嶺師が高齢でインド政府の少数派委員を退いた後、その任を命じられ、政府からニューデリーに事務所を与えられ実質インド仏教徒の代表者になっています。

現代インドの仏教において、最も必要とされるのは信仰的に導いてくれるリーダーです。それは僧侶に限りません。現在信仰的な拠り所として活動している人々は殆ど部派仏教の僧侶です。しかし真の意味でカーストから解放されるべき仏教徒の信仰すべき仏教の流れは、客観的に見ても大乗仏教であると思います。龍宮寺建立から関わっている日蓮宗も、これと言ってリーダーシップを発揮できないでいます。もっと深く関わる、よりインパクトの強い「信仰的リーダー」をじっと待っているのが現代インドの仏教の現状です。

現代インドにおける仏教(1)

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1999年落慶直後の龍宮寺(カンプティ)

現在インドにおける仏教徒人口は2001年国勢調査で640万人、インド人口全体の0.8%といわれています。30年も前の調査なので現在はもっと増加しているでしょう。現地の状況に鑑みて、私個人では現在2,000万人程は仏教徒ではないかと推測しています。ベンガル地方に部派仏教の流れが細々と存在しているようですが、殆ど形骸化しているようです。それではその640万人とか2,000万人という数字はどこからきたものでしょうか?

その殆どはインド中央部デカン高原を含むマハラシュトラ州に住む人々です。主に州の第二首都であるナグプールと首都のムンバイ周辺で仏教が信仰されています。

仏教徒の信仰形態は部派仏教でも大乗仏教でもなく、敢えて言えば原始仏教の形態、つまりは釈迦在世当時の仏教を目指して信仰しています。しかしながら現代インドの仏教徒は彼等の信仰の方向性をはっきりと見出せずにいるのが実情です。その理由を以下に書き記します。

それはどうして彼等が仏教徒になったかということから始まります。

1891年インド・マディアプラデーシュ州(ムンバイを首都とするマハラシュトラ州の北隣の州)マウーというところで、ビームラーオ・アンベードカルという人物が生まれました。彼はカースト最下層の出身でありましたが、学問に秀でてその才能を当時の藩王に認められ、奨学金を得てインドの大学、米国ニューヨークのコロンビア大学、更にはロンドン大学等で学び、弁護士としてその一生を不可触賎民に対する差別撤廃に捧げた人です。インド独立時には法相として憲法の草案に関わり、その殆どが氏の草案によるものでした。元来ヒンズー教徒でしたが、カーストの差別を嫌いヒンズー教から改宗することを決心し、キリスト教やイスラム教などへの改宗を考えましたが、遂に仏教に至りその決意を固めます。

1956年10月マハラシュトラ州の第二首都であるナグプールという所で、他の50万人と言われる不可触選民の人々と共に仏教の戒を受け改宗します。以来その人々は新仏教徒と呼ばれ徐々に共感を集め現在に至りました。

これが現在のインドにおける仏教徒人口がこれほどまである所以でした。

さて、現代インド仏教における話はこれからが本番です。

 

しかしながらあまり長いと読む気も失せるでしょうから、この続きは明日書くこととします。それでは…おやすみなさい。

超破戒

シンガポール

シンガポールに行ってきました。

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シンガポールの銀座通りと言われているオーチャードロード

過去に仕事(モンキービジネス=Monkey {Monky} Business)で何度か行ったことがありましたが、シンガポールという所は東京のような大都会で面白みもあまりないとタカをくくっておりました。しかし今回は休暇で余裕を持って周囲を見渡すことができたので、シンガポールに対する考え方もいい意味で大きく変わりました。

夕食をとりにホテルの外に出かけると、丁度金曜の夜、週末の休暇を控えた多くの地元の人々や観光客、ビジネスで訪れた人々でごった返していました。そのごった返し方も、所謂アジアのごった返し方ではなく、如何にもシンガポールらしく洗練された様相を呈していました。特に若い人が多いのにも驚かされました。

周知の通り、シンガポールは生活水準も欧米並みのアジアNO.1、人々の収入も世界最高レベル、物価も世界一。そういう風な国を創りたくて造った国なのですから、それでいいのですが、そこに住む人々もそういう事実に裏付けられた自信に満ち溢れ、そこを訪ねる人も敬意をもって振る舞うように見え、人種を問わず正にアジアの一角に人類平等の地を創り出したなあ、というのが今回の正直な感想でした。

現地でマレーシア・ペナン出身の友人家族と会い、いろいろと話を聞きました。友人はコンピューターエンジニアですが、高給に魅かれペナンからシンガポールへ、外資系のマイクロソフトで働いて…いたと思ったのですが、今はアマゾンに転職、充実した給料を…いや、そればかりでなく充実して仕事に打ち込んでいるそうです。オフィスには週3回出勤すればよいそうで、あとは自宅勤務だそうです。オフィスに行くときはTシャツに半ズボン、サンダルばきで構わなく、オフィスの各階にはビールが冷蔵庫に冷えており、更には階によって違った種類のビールが置いてあり、自由に飲むことができるのだそうです。これは驚きです。決して冗談ではありません。何とオフィスに家族を同伴しても構わず、その家族がビールを勝手に飲んでもよいのだそうです。目を輝かせる私に向かって、友人が「でもそれで酔って仕事ができなくなる人はいません」と釘を刺されました。因みにその友人はお酒は飲みません。(何と…勿体無い。)

お酒の事ばかり書いて申し訳ありません。何れにしてもシンガポールはまた来てみたいところになったのは紛れもない事実でありました。

今また日本に戻って、寒いけれどそれ故に散らずに待っていてくれた桜に思いを寄せてこれを書いています。

それではさらば…。

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シンガポールの代表的ラガービール「タイガー」