須弥山思想って?

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新潟県と長野県の境にある妙高山ー妙高山とは須弥山のことです。

須弥山(しゅみせん)思想とは古代インドの宇宙観です。

この宇宙観を知っていると、普段私達が使っている日本語がより深く理解できます。

例えば、「有頂天になる」とか、「金輪際会いたくない」とか、「奈落の底に落ちて行く」等の意味がよく分かるばかりでなく、その言葉の表す度合いや深さも理解できます。要するにどれくらいいい気分になるとか、どれくらい会いたくないのかとか、どの程度落ちてしまったか等ということがよく分かります。

更にはこの宇宙観を知っていると、仏教の経典がより簡単に理解できます。「閻浮提(えんぶだい)」とか、「鉄囲山(てっちせん)」とか、「三十三天(さんじゅうさんてん)」等サラッと分かって、お経を読んで行く上で意味をとるのにつっかえずに読み進めます。

その昔西洋で天動説があって、少年が大人に尋ねます。

少年「この陸地をずっと歩いて行くと何があるの?」

大人「ずっと歩いて行くと海があるんだ。だからもう歩いては行けないんだ」

少年「じゃあ、その海を船でずっと行くと何があるの?」

大人「ずっと船で行くと、そこには世界の果てがあるのだ。だからその先には行けないんだ」

少年「でもそれでも進んでいったら何があるの?」

大人「だからその先は世界の果てで…ううん、そう!大きな滝になっていてもうその先には行けないんだ」

少年「それでもその滝を落ちて行ったら何があるの?」

大人「だからその滝を落ちたら…、もう真っ暗闇で何もないんだ…」ってな世界観があったようですが、須弥山思想もそう言ってしまえばそのようなものかも知れません。

そう、天動説です。

頭の中で次の光景を思い浮かべて見てください。

この世は須弥山という大きなとても高い山を中心として日と月がその周りを回っているのです。その山は、先ず風輪と呼ばれる円柱形の巨大な風の輪が虚空に浮いている、そしてその巨大な風の円柱の上に直径が少し小さな、小さなと言っても相当大きいですが、水輪という円柱が乗っている、それは水なのですが、その水輪の上に直径が同じ程の金輪という円柱が乗っている、その中心に位置するというのです。よって私達が行くことの出来る限界が金輪までで、その際が金輪際、つまり真底ということです。そう、金輪際会いたくないというのは、どれくらい会いたくないのかよく分かりますね。因みにこの金輪の一番外側を山々が囲んでおり、それを鉄囲山といいます。

須弥山はとても高く、その頂上に三十三天、これは天が三十三あるという意味ではなく、三十三の神がいるということですが、その王といわれる帝釈天が住んでいるそうです。これはインドのインドラ神のことです。須弥山の上にはもっと精神的な世界があり、その最高の地点が有頂天だそうです。それくらい気分がいいのか、よく分かりますね。

金輪の表面は海で、須弥山を中心に四つの大きな島が四方に位置します。その中の一つが閻浮提と呼ばれ、私達が住んでいるところです。

更には、須弥山の内部、それも金輪から下には地獄があり、その地獄も八段重ねで一番下が無間地獄(むけんじごく)だそうです。因みに地獄はインドの言葉で「ナラカ(naraka)」といい「奈落」の語源です。ですから奈落の底とは地獄の、それも無間地獄の底ということで、奈落の底に落ちるというのはとんでもなく落ちるのだということがよく理解できます。

このようにちょっと須弥山の宇宙観をかじっても日本語の言葉の意味がよく分かります。日本の文化が如何に仏教文化に根差しているかがよく分かるのではないでしょうか。それを知らないのは現代日本人だけということでしょうか。

是非皆さんもこれを機に興味をお持ちの方は須弥山思想の本を読むことをお勧めします。私は縁あって若い頃(今も若いのですが)講談社現代新書の定方晟(さだかたあきら)著「須弥山と極楽ー仏教の宇宙観」という本を読み、その後仏教僧侶となりお経の意味をとるのに非常に役立ったという経験があります。

最後に、新潟県と長野県の境に位置する妙高山は、その須弥山をイメージして名付けられたようです。妙高とは須弥山の意訳です。よくスキーをしに行き、ゲレンデが快晴の日には本当に須弥山のような美しく偉大な姿に思わず手を合わせたものでした。