元品の無明を切る大利剣

 仏法の真髄は永遠普遍の真理を理解し体得することであります。その永遠普遍の真理とは徹頭徹尾冷たいものであります。まるで鋭利な日本刀のようで、刃筋を立てて切ればスパッと切れますし、少しでもそれがずれようものなら何も切れません。要するにそこには原因と結果があるだけで、その真理にいくら逆らおうとしても何も変わらないということなのです。

 「元品(がんぽん)の無明(むみょう)を切る大利剣(だいりけん)」という肝文がありますが、「元品の無明」とは無知のこと、それを切る「大利剣』とは真理のことであります。

 その冷たく輝く鋭い刃の如く、真理は容赦なく日々私共に現実を突きつけて迫ります。そこには偶然や奇跡といったようなものは存在しません。それは私共が無知であるが故に、現段階で因果関係を説明できないことをそう呼んでいるにすぎません。すべてが因果律に帰着します。

 しかしまたその冷酷とも受け止められる真理を体得したとき、この上も無き心の自由自在を得、それが宇宙空間に拡散していくかの如く私共の心を満たすのです。その感覚といったら正に時間・空間から解き放たれた自由なのであります。妙法蓮華経という大乗仏教のお経の中に「風の、空中において一切障碍無きが如く…」という一節がありますが、正にその感覚かもしれません。そうなりますともう生きて行く上でのいろいろな苦労とか、日々年老いていくこととか、病に罹ることとか、そして死ぬことまでそれなりに穏やかに受け止めることができるようになります。そうすると何も怖いものはありませんから、心は貪りや愼り、無知を離れ平安になり、これが悟りの境地と呼ばれるものであるのではないかと思われます。

 

 

願わくは悟りの境地に到たい…。ジャズピアノでもどうぞ。

www.youtube.com

良質の「成長」に必要なもの

 口を開けば「成長、成長」と、より一層の経済成長を促す声は、ここ日本ばかりでなく世界中で聞かれる声である。確かにこの世界には今だ発展途上にあって大きな成長が見込まれる国や地域が多くある。また一方で、成長しきっているのに周りにあるその恩恵に満足できないのか、はたまたそれが見えないのか、未だ「成長、成長」と捲し立てる国々もある。物には限度が、または限界があるということが分からないのだろうか。この世のどこかに金のなる木でもあると思っているが如くである。

 何れにせよ世の人々が挙ってより一層の経済的成長を願うというのは、人間としての本能、もしくは仏法的に言えば煩悩であるのだ。人間の貪欲、物欲には限度がない。仏法では「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒」といって人として戒めるべき、というよりはその本質をよく知って制御するべきものである。瞋とは怒ること、恨むことをいい、痴とは無知、知識がない、無教養である、即ち知らないということである。貪も瞋もみな無知より生ずという。無知は無明ともいう。ということは貪欲を制御するには知識をつける、教養をつければうまく制御できるということである。そこで大切なのは教育である。良質の成長には良質の教育が必要なのである。

 現在でも良質の教育が施されている国や地域には精神性の高い幸福感が育まれる。北欧諸国等での高い福祉水準や平等性などはその効果の顕われと言えるのではないだろうか。一方、質の悪い教育は質の悪い幸福感を育む。全体が見えず考えられず、利己に走る成長は貧富の差を広げ世の中全体として不幸になるだけである。それでは良質の教育とはどういうものであろうか。それは哲学を伴った教育である。哲学を伴わない教育は只の方法論にしか成り得ないことがある。例えば数学を学ぶにも、何故我々は数学が必要なのかを哲学する必要がある。そういう意味で欧州における哲学教育はアジアのそれよりかなり発展しているらしい。初等教育から哲学を取り入れているそうである。アジアには仏法(仏教)という素晴らしい哲学が存在する。宝の持ち腐れである。これを使わぬ手はないのではなかろうか。

 現代社会は分野の専門化が進んでいるといわれている。コンピュータのことが得意だったらその知識にだけ秀でれば、他ができなくとも世の中で通用するというようなことである。ところが一方で統合学のように、すべての分野は関連し合っているので統合的に思考することが必要であるというようなものである。自然に考えれば至極当然の論理である。世の中のすべてのこと乃至ものはそれだけで独立しているものはなく、すべてが因果律によって関連し合っているのである。私の知人は、この統合学の誕生に関わっており、それはドイツで行われた。彼の専門はそれまで脳化学であったが、その分野の研究だけでは解決できず統合学に傾いた。彼の研究の一例は、脳化学としての人間の思考における発火作用を、仏典の妙法蓮華経に説かれた「一念三千」という哲理のよって数式化することであった。

 このこと一つをとっても哲学に基礎をおいた教育というものは良質の教養と成り、良質の幸福感が育まれる。その上で今一度経済成長ということを見直せば、自ずからその行くべき道が明らかになってくるのではないだろうか。

 

まあ、ジャズピアノでも聞いてください。

www.youtube.com

戒名(法名)について

 戒名(法名)とは元来仏門に入った人に授けられる出家者としての名前である。

 その起源は、仏法僧侶が葬儀を行うようなってからのことである。室町時代に寺領を持たない寺の僧が生活の糧として葬式を始め、いくらかの収入を得たのが現在の仏教寺院による葬式の起源である。初め一般人の葬式の仕方をどうしたよいか分からず、以前より寺院内で行われていた僧侶の葬式に合わせ、死亡した人を出家させ僧侶として葬った。よって死者に戒名を授けるようになったのである。

 現在でも棺の上に小刀が置かれるが、葬儀屋さんが知ったかぶりな顔で「冥土までの守り刀です」などと説明しているが、あれは実は剃髪、つまり出家するために髪を剃る剃刀なのである。それ以後直接仏法とは関係のない、屍体に対して読経するなどの屍体崇拝、遺骨崇拝、墓地崇拝、位牌崇拝(中国の道教の影響)、死後成仏等の迷信・妄信を日本仏教として取り入れてしまったのである。

 在家者が死後に寺院より戒名(法号)を授けられる風習は時とともに発展し、戒名にランクが生じ、現在ではその料金にも差がつけられることになってしまった。この風習も室町時代より現在までの長い間続いていれば、今更「本当はそんなことする必要はありません」なんてことを言おうものなら反社会主義者として扱われかねない。

 それでも敢えて正直に言おう。現代社会において一般の方々(在家者)に死後の戒名(法号)は必要ない。皆既に立派な名前を持っている。出家者は出家の決意を込めて戒名を授かって構わない。その代わりそれまでの名前を捨てなければならない。ただ現代の世の中において、本来の意味での出家が物心両面において可能かどうかは甚だ疑わしい。どうしても形式上の出家となることは仕方がないことだと思われる。死者に死後に戒名(法号)を授けるという慣習も、これだけ永きに亘って続けられると、それなりに意義を持ち始めその意義も発展する。よって必要ないとは言っても後戻りできない現状と実績がある。よって敢えて「現代社会において」と前置きした。これから将来この習慣を永年に亘って踏襲してきた日本仏教界においても真剣にこの問題と向き合わなければならない日はとっくに来ている筈である。

 また、海外において日本仏教各宗派の国際布教がなされているが、その任にあたる人々は日本仏教が生んだ特有の文化と、本来の伝えるべき仏法を明確に区別して、その土地土地に順応した形で布教を進めて行くことを肝に銘じるべきである。

 

ふ〜。ジャズピアノでも聞きましょう…。

www.youtube.com

超常現象について

 1992年頃だったであろうか、当時私は米国ハワイ州ホノルルにあるハワイ日蓮宗別院というお寺で、副主任という立場でお坊さんの仕事をしていた。その日は週に一度の休日だった。仕事の合間に弾いていたギターの弦を買い替えようと、カイムキという街に行った。車を道沿いの駐車スペースに停め車外に出て楽器店に向かう途中、辺りが急に暗くなった。まだ昼の3時頃だったと思う。とても奇妙な気持ちになり空を見上げると、暗雲たれ込めるわけでもなく青空が…いや、既に薄暗くなった青空が広がっていた。SF映画を観るのが大好きである私の心をすぐに過った不吉な予感。何かこの地球にとってよくないことが起きるのではないか、と心配になり辺りを見渡すと、人々は平気な顔をして普段通りに街を歩いている。これは尋常ではないと感じた私は楽器店で何事も起こっていないかのような顔をしてレシートを渡す店員をあとに用を済ませ、小走りで車に帰り急いで帰宅した。帰宅する頃には空は少しずつ元の明るさを取り戻しつつあった。周囲の人々はこの異変に何故気が付かないのか。それとも自分だけ何か特殊な能力があってこの異変が見えるのか。テレビをつけた私は、次の瞬間驚きと共に安堵の気持ちに満たされた。その日は日蝕が起こったのである。部分蝕で真っ暗にはならなかったらしい。我ながら自らの無知に呆れるばかりであった。
 日蝕とは地球と太陽の間に月が入り、月の影が太陽を覆う状態をいう。今時そんなことは皆知っている。だから人々は何も起こっていないような顔をして通りを普段通り歩いていたのである。これが近代天文学がなかった時代であったらどうであろう。きっと世の人を挙って驚き、畏れ必ずや何か不吉な事が起こるに違いないと思うだろう。今風に言えば超常現象である。日蝕ばかりではない。地球のメカニズムを知らない頃は、地震や火山の噴火等もさぞ驚きであり恐れであったであろう。雷など、急に暗雲立ちこめ大きな雷鳴と共に稲光が四方八方に走る様子は、正に神が怒っているに違いないと考えたであろう事は想像するに易い。私たちは知らない事に畏れる。人知で計れない事が起こると恐れ戦くのである。だから死に対しても恐れ戦く。死んだら何処へいくのだろう。どうなってしまうのだろう。魂はあるのだろうか…等、知らない、分からないから恐れ戦くのである。
 自然科学の発達に伴い、我々も自然に対する知識が豊富になってきた。だから昔のように畏れる事は少なくなってきた。しかしながら、いくら自然科学が発達したからといってすべての自然現象が科学で解明されたわけではない。寧ろ私たちは、現在においても氷山の一角しか知らないと言った方が適当であろう。だからまだこの世の中には恐れ戦くものが沢山ある。その知らない事をまとめて超常現象と呼んだりする。超常現象はその発生の因果関係が解明されていないため、往々にして宗教と結びつけて見做されがちである。日蝕や雷が神の怒りに違いないと想像するようなものである。よって将来自然科学の益々の発展により人類の知識がもう少しその範囲を広げた時、「21世紀初頭の人々は、死霊が彷徨って災いを起こすなんて信じて恐れていたんだって。おもしろいね」なんて未来の人々に笑われかねないのである。そのように現在その因果関係が科学的に解明されずに一括して非科学的として見做されている事柄も近い将来解明されるかもしれないのである。
 寺でお坊さんをしているといろいろな人々が相談に来る。特に上記のような超常現象に遭遇した人々の話は興味深い。当初は私も半信半疑だったが、これだけ事例があり更には自らも体験したりすると、そんな非科学的な事は起こりっこない。あなたの深層心理が反映された幻想や妄想に過ぎませんよ、などと片付けられなくなってくる。死霊が見えるという人がいる。少なくない。でも普段そんな事を口走ると気違いだと思われるから黙っているという人が多い。そんな事を描写した西洋の映画もある。
 これもハワイでの話であるが、ハワイでにはカフナという土着の霊能力者が存在し、死霊や悪霊、動物霊の話が現在でも絶えない。ある日お寺に一本の電話があり、自宅に悪霊が出たから悪魔払いして欲しいという依頼があった。映画のような話だが実際にあるのである。悪魔払いを行うエクソシストのような気持ちでそのお宅に伺った。かなり深刻そうな顔で、子供たちは危険だから祖父母に預かってもらっているという。依頼者は中年の男性で、しきりに自分の事を気が狂っているのではないと言っていた。誰もいない家の内部に通され、子供部屋から大きな獣のような声が聞こえて恐ろしくていられないと言うのである。そんな馬鹿なことが、と半信半疑で、「それでは仏典を唱えて悪霊を成仏させるから」などと心中方便と思い意を決して読経を始めると、なんと本当に獣のような大きな声がするではないか。それも家の縁の下から天井まで響くような恐ろしい声である。流石の私も怖くなったが、そこが子供部屋であったので何か玩具のスイッチか何かが入っているのではと調べたが、そのようなこともなかった。依頼者も「自分も最初はそう思って調べたがそのような玩具はない。聞いただろ。あの声。おれは気が狂っているんじゃないよ」と真剣な顔つきで言う。その日はそれで帰宅したが、その世寺の駐車場で野生のイノシシが叫ぶような声が長く続いた。あまりのうるささに窓を開けて駐車場を見てみると何もいない。不思議な事に周りの民家の番犬達は一頭として吠える事もなかった。それも怖いと思った私の深層心理を反映した妄想か、はたまた悪霊の為せる業か。未だに不可解である。
 仏道においては因果律をいう。すべての物事・出来事には原因と結果があるとみる。よって超常現象にも原因と結果があるとみる。だから仏道において奇跡はない。上のような出来事もその因果関係がいつの日か解明される日が来るかもしれない。だから無闇矢鱈に恐れる必要はない。そんな事に執着する必要もない。死霊が科学的に存在してもいいではないか。もし存在するとしてもそれはきっと微力な存在である。常に助けを求めている。弱い犬程よく吠える、という。きっと何とか私たちの注意を引いて救って欲しいのである。それを知らないから私たちはそれを恐れ戦いてしまうのかもしれない。仏陀の大慈悲を持ってすべての衆生を救いたいという心があれば死霊に対しても、超常現象といわれる未知の出来事に対しても恐れ戦く必要はない。

 

それではジャズピアノを一曲どうぞ。

www.youtube.com

法華経における五何法と十如是

 これだけはどうしても伝えておかねばならぬので、厄介だけど…、坊さんじゃない人は「なんじゃこれ」みたいな記事ですげど敢えて書きました。

 

 西暦6世紀頃に中国に出現した仏教僧智者大師智顗(ちぎ)は、インドから一度に入って来た多くの仏典の内容をすべて精査し、天台学という一大仏教哲学を構築した。それは「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」と呼ばれ、智顗はそれぞれの経典の内容によってその教えの高低・深浅により優劣をつけ、釈迦牟尼仏陀の一生のうちどの時期に説かれた教えかということを判定し解釈したのである。

 釈迦牟尼仏陀が悟りを得てからの一生を五つの時期に分け、仏典の教えの内容の高低・深浅によって八つ教えの種類に分けて配当した。よってそれは五時八経(ごじはっきょう)と呼ばれる。五時八経についての詳細は、別に述べる事として、その五時の最後は「法華・涅槃の時」と位置づけられ、釈迦牟尼仏陀の教えが最高に熟された時期と解釈された。そこに当てられた経典はその字の如く、法華経(妙法蓮華経)と涅槃経(大般涅槃経)である。よって天台学では仏陀の教えの最高峰は法華経であると判定・解釈する。

 この考え方は、近代の仏教学の発達に伴い、実際それぞれの経典の成立年代が科学的に概ね証明され、必ずしも歴史的事実ではないことが判明しているが、諸経典の内容を精査する上では非常に重要な分類方法と考えられる。そのことはこれを構築した智顗自身も、天台学に基づいて勉学研鑽を積んだ日本仏教における鎌倉時代の祖師達もすでに承知していたものと思われる。
(そのことは、鎌倉仏教祖師の一人である日蓮もその著作「守護国家論」で、「大部の経、大概(おおむね)是の如し。此れより已外(いげ)諸の大小乗経は次第不定(しだいふじょう)なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く。みな義類(ぎるい)を以て之を収めて一処に置くべし」と述べている。)

 さてそれでは智顗は、如何様に法華経を釈迦牟尼仏陀の最高の教えであると位置づけたのか。その理由として、法華経の仏教における総合統一性が挙げられる。法華経の内容を精査すると、それまで部派仏教と大乗仏教に分裂した仏教を統一しているし、多くの仏国や浄土が説かれていた世界観も、実際我々が住む娑婆世界に統一され、そこに居られる仏陀も娑婆世界の久遠実成釈迦牟尼仏陀に統一され、他国の多くの仏陀は皆その分身であると説かれている。よって経典成立当時分裂していた教えや信仰を統一している法華経が、最高位であると位置付けられたのである。

 また智顗は法華経方便品に説かれる「十如是(じゅうにょぜ)」という教理から、「一念三千(いちねんさんぜん)」と呼ばれる哲学を構築し天台学の根本教理とした。一念三千とは、一念の心に三千の諸法(この世で起こっているすべての出来事や、存在する物事)を具えることを観(かん)ずるという、観法である。観法とは、 意識を集中させ,特定の対象を心に思い描くことによって真理を認識しようとする、仏法における修行法である。

 この一念三千の基となった十如是とは、宇宙の森羅万象(諸法実相)は「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」という十の要素を持つということである。この根本教理が著されている法華経は、西暦4世紀から5世紀頃にかけて中央アジアに出現した訳経家の鳩摩羅什(くまらじゅう=クマラジーバ)によって、サンスクリット語かその他の中央アジアの言語から中国語に翻訳された。近年そのサンスクリット語版を入手する事は容易いが、その原典の方便品の十如是の部分は、十如是でなく「五何法(ごがほう)」と呼ばれる五つの要素が書かれているのである。鳩摩羅什は原典法華経の五何法を十如是に発展させたのである。
 実はそれは鳩摩羅什自身が直接したことではなく、既に龍樹(ナーガールジュナ)の大智度論という経典の注釈書の中で十如是に近い解釈がなされている。龍樹は大乗仏教を教理的に確立した人物であり、大乗仏教の中観派という流れの祖とされた。鳩摩羅什は大乗仏教中観派の僧として出家した。そこに確かに繋がりがあるのだ。
(羅什が利用したと推測されている「大智度論」の箇所は、「大智度論巻三十二」の
「一々の法に九種有り。
一には、体有り。
二には、各々法有り、眼耳は同じく四大造なりと雖も、而も眼のみ独り能く見、耳には見る功無きが如し。また、火は熱を以て法と為し、而も潤す能わざるが如し。
三には、諸法各々力有り、火は焼くを以て力と為し、水は潤すを以て力と為すが如し。
四には、諸法は各々自ずから因有り。
五には、諸法は各々自ずから縁有り。
六には、諸法は各々自ずから果有り。
七には、諸法は各々自ずから性有り。
八には、諸法は各々限礙有り。
九には、諸法は各々開通方便有り。諸法の生ずる時は、体及び余の法、凡て九事有り。此の法には各々体法有りて具足するをしる」との文である。)

 五何法とは、宇宙の森羅万象(諸法実相)は、「何等法、云何法、何似法、何相法、何体法」という五つの要素があり、「何等法」とは、何であるのか。「云何法」とは、どのようにあるのか。「何似法」とは、どのようなものであるのか。「何相法」とは、どのような特徴を持つのか。そして「何体法」とは、どのような固有の性質を持つのか、である。

 西暦7世紀にでた中国の訳経僧玄奘 の「妙法蓮華経玄賛」では、十如是を五何法に次のように配当している。如是相と如是性とは、合わせて第一の何等法。如是体は第五の何体法。如是力と如是作とは合して何似法。如是因・如是縁・如是果・如是報は合せて第二の云何法。…如是本末は第四の何相法である。

 法華経は五何法がその原典であり、従って十如是を基とする智顗の一念三千は成り立たないとう説があるが、それは一念三千の三千を数としてしか捉える事のできない無知の愚説である。

 以上のように、法華経サンスクリット原典では方便品に、宇宙の森羅万象の分析法として五何法が説かれ、その教理が鳩摩羅什の漢訳では十如是に発展した。それには龍樹の大乗仏教における空の義の確立が大いに寄与しているのである。鳩摩羅什が発展させた十如是は天台大師智顗の一念三千の哲理に発展し、伝教大師最澄はそれを日本に持ち帰る。そこで勉学研鑽に励んだ日蓮はいよいよその一念三千を、事の一念三千として発展させ、私たちの日常生活に深く関わらせたのである。

 

大変読むのが難解な文章ですけれどすみません…。でもとても大事だと思います。

www.youtube.com

批判の方法

 物事について理論的に相手を批判するには、相手の考えや意見を正確によく知らなければならない。相手の事をよく理解しないで批判するのは、単なる誹謗中傷である。

 紀元2世紀から3世紀頃南インドに出現した、大乗仏教の哲理を確立したといわれているナーガールジュナ(龍樹菩薩)は、自らが著した中論という仏典の注釈書において、それまでの部派(小乗)仏教の哲理を論破しているが、実はその相手の思想をよく理解していた。よく理解していたというよりも、むしろ誰よりもその思想に精通していた。だからこそ真っ向から批判し論破し得たのである。

 紀元4世紀から5世紀に中央アジアに出現した、訳経(仏教の経典をサンスクリット語やパーリ語などの言語から漢語に翻訳すること)で有名な鳩摩羅什(くまらじゅう=クマラジーヴァ)は、母親と共にインドに留学し仏法僧となったが、その際多くの仏法における諸教義・諸思想を研鑽しよく理解した上で、自らは大乗仏教中観派の僧として出家した。

 紀元6世紀に中国に出現した中国天台宗の祖智者大師智顗(ちぎ)は、五時八経(仏典の完成時期を系統立てた智顗の思想)の教判を立てるにあたり、一切経に精通した。数ある仏典中法華経を以てその最高の教えとした背景には、一切経の理解という前提があったことは言うまでもない。

 紀元13世紀に日本に現れ日蓮宗の祖となった日蓮は他宗の教義を批判する前に、八宗兼学していた。

 然るに現代の世の中において他を批判する者は多いが、相手をよく理解せずして批判する事は、冒頭でも述べたが、それは批判ではなく単なる誹謗中傷の域を出ない。

 相手を批判する際は、相手の事を正確によく理解する、知る、という姿勢は、私達の実際の社会生活にも十分活用できる。普段からそういう姿勢を心がければ無駄な、ややもすれば感情的になるような諍いは激減するであろう。私達の実生活において、私たちはいろいろな立場に置かれる。私たちがその生活の中で相対する人々も同じようにいろいろな立場に立ち私たちと接しなければならない。そのような人と人との関係の中で意見や主張の相違や齟齬が生じた場合、相手の立場や状況を考慮する事なく、無闇矢鱈に相手を批判するのは、上述の如く品格や教養、思慮に欠ける行為であろう。

 一方で、常に互いに相手の立場や状況を理解する事に努め、相互理解の下で批判し合う状況のもとでは、そこに起こった問題や意見・主張の相違・齟齬を解決する可能性は大となり得るであろう。

 現代社会に山積する諸問題の解決に、正しい批判の方法が用いられ、多くの問題が解決する事を心から願う。先ずそれには、お互いに相手をよく知り、よく理解するということが重要である。

 

心安らぐジャズピアノをどうぞ…。

www.youtube.com

 

教育における哲学の必要性

 2013年12月5日、元南アフリカ共和国大統領であったネルソン・マンデラ氏がこの世を去った。氏は生前特に教育の必要性を説いた。氏の有名な言葉がある。

 "Education is the most powerful weapon which you can use to change the world.”

 和訳すると、「教育は、世界を変えるために使える最も強力な武器だ」となる。言葉の如く教育は重要である。しかしマンデラ氏の志しにも拘らず、アフリカ諸国で続く民族間紛争や内戦で、未だに多くの人々が苦しんでいる。そういったアフリカ諸国の指導者達もマンデラ氏の啓蒙を受け、無教養が無意味な争いを引き起こすことを自覚しつつ、各国において教育制度の確立や推進に真摯に取り組んでいる現状は、未来に希望の火を灯すものである。

 同じく中東地域における、多くの一般市民を犠牲とする権力闘争・内戦や、南アジアにおける女性への差別問題等、目を覆いたくなるような不合理な問題は、すべて無知・無教養という原因による結果といって過言でない。

 無知は仏法でいうところの三毒の一つである。三つの毒とは、貪欲、憎悪そして無知である。無知は無明とも呼ばれ、諸悪の根源とされるのは誠に納得のいくところである。

 しかしながらその教育にも仕方というものがある。東アジア諸国に波及している、ただの詰め込み方式の教育であるならば、その結果は創造性の欠如とか利己的な人間を育ててしまうなどの結果を既に生み出している。教育にはその根底の哲学を教える大前提が必要なのである。

 それではその大前提の哲学とは如何なるものか。そんなに難しいことではない。例えば、ある日テレビの番組を見ている時、三人の若者の対話があり、場所は茶席であった。茶道の作法に則り茶をいただく場面であったが、若い茶道教授がそれを教えていた一場面があった。茶道の作法では、客は茶を立てる亭主の前に一列に座る。最初の客が茶を差し出されて、先ずそれを次の客と自分との間に一旦置き、「お先に頂戴します」と軽く会釈し挨拶する。それは次の客への思いやり、気配りである。茶道の極意である。その番組の中で若い教授は、「はい、先ず茶碗を次の客との間に置いてください。そして〈お先に頂戴します〉と軽く会釈しご挨拶をしてください」と教えた。それが間違いである。言われた方は何故茶碗をそこに置かなければならないのか、またその挨拶をしなければならないのか理由が分からない。これをもしその教授が「次の客への思いやり・配慮を示すために、先ず茶碗を次の客の間に置いてください…」と教えたらどうであろう。教えられた方はその理由がよく分かり、会釈の仕方も言葉に籠る感情も変わってくるであろう。

 方法論を先行させ、それを丸暗記式に詰め込み、形を作ってから全体を考えてみよ、と教えるより、その基本的な哲学を教え、納得しながら、考えながら自らがその形を作った時に、既に全体像は十分に、その精神とともに把握されているのである。そういう教育法を発展・持続していけば、自ずから創造性に富んだ、他への思いやりに満ちた人材が育てられるのではないか。

 

堅い話ばかりで申し訳ありません…。実際私はそんな堅い人間ではないのですが…。

ジャズピアノでも聞いてデラックス…いや、リラックスしてください。

www.youtube.com