本来の教えから逆行する日本仏教

 仏教本来の教えとは、物事に執着しない、こだわらないことです。そういう何事にもとらわれない、動じない精神状態の最高峰が、お釈迦様の悟りということになります。難しい言葉でいうと「一切空」の教えであります。

 ところが仏典がインドの言葉から中国語に翻訳され日本に伝えられる過程で、中国の土俗信仰と習合し、また日本の土俗信仰と習合し、その様相は本来のものから随分変わってしまいました。本筋の、物事に執着しないという基本的な「一切空」の教えは、民衆救済のためその表現方法が「方便」として様々に転換され、やもするとそれを説く僧侶もその方便に埋もれてしまいがちになりました。僧侶がそれですから一般の人々は言うまでもありません。従って、本来は「物事に執着しない」教えだったのに、いろいろなことにこだわる、執着に満ち溢れた宗教になってしまったのが日本仏教であります。

 それでも鎌倉時代のお坊さんたち、即ち現在の殆どの宗派のお祖師様方は立派だったと思います。当時はまだ今のように仏教が世俗化していなかったのだと思います。禅宗の祖の栄西禅師や道元禅師、念仏系の法然上人や親鸞上人、そして日蓮宗の祖、日蓮聖人はやはりその根本の教えから離れることがなかった、現代の僧侶のように生活のために教えを崩すことがありませんでした。現代では特に仏教が形骸化し「葬式仏教」などと呼ばれ世の中から批判されています。勿論仏教界内部にも大いに反省がありますが、長い間に積み重ねられた既成事実を変革することはなかなか難しいというのが実情であります。

 そういう私もその現代仏教界の僧侶の一人であり、この大いなるジレンマの真っ只中で如何に本来の教えを世の中に説いていくか、どうやってそれを始めたらいいのか、日々自問自答しながら悩んでおります。

 かの司馬遼太郎さんが「春灯雑記」という著書の中で、日本仏教は十三世紀(鎌倉時代)から発達しておらず、それは仏教界の怠惰によるものである旨書かれておりますが、まったくもって、恥ずかしながらその通りだと思います。一つの例を挙げるならば、読経、つまりお経を読むというスタイルについてもそれが如実に現れています。仏教が日本に伝来してから江戸時代くらいまではそれで良かったのかもしれませんが、未だに中国語の音読をしています。勿論現代人はその意味が汲み取れません。それどころか僧侶の中でも、その響きが神秘的でよいのだ、意味など理解する必要は無いなどという輩も少なくありません。ですから私は英語圏で布教活動をしているとき、なるべくお経を英語で読むように心掛けました。日本に帰って来てからはなるべく訓読といって漢文の書き下し文でお経を読むよう心掛けています。最近美しい日本語で書かれた「和訳法華経」という日本語の法華経訳のを見つけました。古文調ですが美しい訳です。現在それをどうやって実際に布教に役立てることができるか研究中です。

 話は少しく横道にそれましたが、本題に戻ります。

 このように仏教界ですら長い間によって積み重ねられた既成事実を伝統と呼び、それに執着して変革・改革を嫌います。仏教界の大きな問題は置いておいて、私共の日常の信仰生活においても多くの執着、つまりこだわりや迷信が多くみられます。またそれが伝統になってしまっていることもあります。「お上人さん、法事の時にお焼香は一回ですか、三回ですか」とよく聞かれます。禅宗系の方は二回だという人もいます。結論から言えば何回でもいいのです。一回だけしたければ一回でもいいし、十回したければそれもよし、実は何の決まりも無いのです。それをあたかも重要なことのように後から意義付けして慣習・伝統にしてしまうのです。

 そうは言ってもこれらの多くの慣習・伝統に「執着」している現実を、只批判ばかりしていても何も得るものはありません。問題はそれを如何に皆で理解し修正していくかです。

 お釈迦様の基本的な教えに「八正道(はっしょうどう)」というのがあります。八つのことを正しくやりなさいという教えですが、何が「正しい」のかということに深く疑問を持ちました。いろいろ勉強してみると、どうやらお釈迦様がこの世にいらした時代も、バラモン教やその他の思想・宗教が満ち溢れていた時代であったので、多くの迷信や誤解が人々の生活を脅かしていたようです。そんな迷信や誤解を恐れず、執着から離れ、あるがままにやりなさいというのがお釈迦様の「正しく」の本意であられたようです。お釈迦様が入滅されて約二千五百年、末法と呼ばれる現代に於いてまさに今多くの執着や迷信・誤解・妄信を離れ、物事を「正しく」理解し行動していくことが重要な時代なのかもしれません。また折につけて共に学びましょう。

 

心に響く一曲をどうぞ。

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