量子論と仏法(1)

量子論のことを少し書いたら反応があったので、知識をリフレッシュしようと量子論について再度調べて見ました。佐藤勝彦さんという東大大学院の教授が著した「『量子論』を楽しむ本」(2012年)という、かつて読んだけれど殆ど内容を忘れてしまった本を読み返しています。こういう本はお経と一緒で、読む度に新たな発見があってとても興味深いですね。

かのダライ・ラマ14世も「15年から20年くらい前、ある会議でインド人物理学者のラジャ・ラマナ博士が、ナーガールジュナ(龍樹)の仏教思想と量子論との一致があまりにも多いことに驚きを禁じえ得ないと話してくれました。(インドの)プレジデンシー大学の副総長が以前、量子力学によれば客観的に存在するものは何もないことになると教えてくれましたが、これは(大乗仏教の)瑜伽行派(ゆがぎょうは)と中観派の見解との一致を思わせるもので、特に物事は説明の仕方によってのみ存在するというナーガールジュナの仏教思想と同じものなのです」と語っています。

そんな事を前知識に入れながら読み返していると、既にその序章で早速ダライ・ラマさんの言ったことになるほどと思ってしまいました。著者の佐藤教授はなかなかのユーモアのセンスをを持ち合わせておられるようで、イントロダクションにおいて「天才科学者二人と猫による『量子論超特急』」と題して、20世紀を代表する物理学者のニールス・ボーア博士とかの有名なアインシュタイン博士に対談をさせて、読者に量子論と言うものの大まかな理解を促しています。しかもその司会者は、シュレーディンガーの猫という設定です。

(「シュレーディンガーの猫」について説明すると大変な困難を要するので、各自インターネット等でお調べください。)

二人の対談は、光が粒なのか波なのかから始まり(物質の原子核の周りを回っている)電子に及びます。電子が粒なのか波なのか。波なのだという点で二人の意見は一致しているのですが…。

ボーア博士が言います。
「誰も電子の波を見た人はいないのです。見たことのないもの、実験しても観測できないものについてそれ以上詮索しても、意味がないのです。そしてシュレーディンガー君が作った方程式さえあれば、電子に関するどんな実験も、結果を見事に予測できるので、それで実用上は何の問題もないし、究極的には「観測していないときにしか現れない電子の波は、私たちにとって存在しないのと同じだ」と言って良いのです。」

えっ?これって何となくナーガールジュナさんの発言っぽくないですか?

するとアインシュタイン博士が言い返します。
「いや、それは違うと、私は昔から言い続けてきたんだ。我々が見ていようがいまいが、そこにあるものは「ある」に決まっておる。電子の波だって絶対にあるんだ。それをないと考える?我々が見たとたんに波が消える?そんな都合のいい理屈があってたまるか!」

あれま!これって部派仏教の説一切有部のお坊さんが言ってるみたい…。

さらにアインシュタイン博士は…
「自然はもっと理路整然とした、美しく確定的なものになっているに決まっている!そして神はサイコロ遊びのようないい加減な真理を作ったりはしないのだ!」

これは執着心では…?

そしてボーア博士が言います。
「私は、量子論が描く「あいまいな自然」こそが、自然の究極の姿であると思っています。」

曖昧と言うか一切空と言うか…。

序章でこれですから、ますます読み返すのが面白くなってきました。ダライ・ラマさんは流石ですね。続きは次回に。

 

Over The Rainbowです。

www.youtube.com